自分の思いも言わずに世の中を憂いてはダメ!

微力ながら少しでも世の中を良くしたいので、思いを発信していきたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

言いがかり甚だしい方広寺鐘銘事件の鐘は今でもそのままの形で残されています

 


関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣家の領地を220万石から65万石に減らして一大名に落とし込み、江戸幕府を開いて将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、徳川家の支配体制を磐石なものとした徳川家康でしたが、その晩年に豊臣秀吉の遺児の豊臣秀頼を何としてでも葬りたいと なりふり構わず に言いがかりをつけたのが、有名な 方広寺鐘銘事件 です。

65万石に領国を減らしたとはいえ、豊臣秀吉が残した膨大な金銀が大坂城には残っていたので、その財力を減らさせるために徳川家が豊臣家に再建を勧めて完成した方広寺の巨大な鐘に刻まれた銘文の中に 国家安康 君臣豊楽 の文字を見つけ、これは 家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの だという、小学生でも唖然としてしまうような酷い言いがかりをつけました。


多くの文字の中から、よく、探したものだと、呆れてしまいます。


結局は大人気の大河ドラマ真田丸」でも、いずれ扱われる 大阪の陣(冬の陣と夏の陣) で、最大で両軍合わせて30万人ほどの兵力が激突して、多くの生命が失われ、豊臣氏も滅亡しました。



戦争が起きる前に、豊臣方は、悪意が全くない ことを必死に説明しましたが、何が何でも戦争をしたかった徳川家康は、決して許さず戦(いくさ)となりました。

本当に、どんなに謝まられても許さないほど怒った 国家安康 君臣豊楽 の文字ならば、大阪冬の陣での和議成立後、遅くとも夏の陣が終了して豊臣家が滅亡した後に、直ちに方広寺の鐘は処分するなり、銘文の修正や削除がなされるべきなのに、まった何もなく、江戸時代を経て、21世紀の今日まで、鐘が現存しています。

せめて、鐘を何とかしなければ、後世に恥を残す ことになるとは思わなかったのでしょうか?

同じような話が20世紀のドイツでも起こりました。

1933年ヒトラー率いるナチス党が選挙で第1党を獲得しました。

しかし、獲得議席は全体の45%ほどしかなかったため、大臣のポストのうち、首相のヒトラーを含む3つの大臣しかナチス党は獲得できない連立内閣でしかありませんでした。

大臣ポストこそ、少なかったものの、ナチスは首都ベルリンの警察を管轄するトップであるプロイセン州内相のポストを得ていました。

そうした時に、ドイツの国会議事堂が火に包まれました。

現場にいたとされるオランダ共産党員のオランダ人ルッペが逮捕されましたが、ナチスはドイツ共産党員による組織的なテロ行為だと断定して、共産党議員たちを一斉に逮捕しました。

全体の約13%の81議席を有していた共産党議員は全員、逮捕・拘束された後、ワイマール憲法を無力化するための 全権委任法 が国会に提出されました。

81人の共産党議員は逮捕されていたため国会に出席できず、逮捕を免れたドイツ社会民主党の91人の議員が反対票を投じたものの、他の政党はナチスに脅迫されて賛成票を投じたために法律が成立してナチスの独裁体制が確立されてしまいました。



この国会議事堂放火事件は実はナチスによる自作自演の放火だったのではないかという説もあり、現在でも議論が分かれています。



いずれにせよ、国会など無視して、政府が自由に法律を作ることが出来るようになった全権委任法が成立した後、ナチス党以外の政党は全て解散させられ、新しい党を作ることも法律で禁止されました。

よって 有形無力 となった国会ではありますが、その後、1933年11月、1936年、1938年と、立候補者はナチス党員だけという選挙が行われましたが、(国会は代替会場にて実施され)1945年の第二次世界大戦敗戦によるナチス政権の終焉まで放火により燃えてしまった国会議事堂が修復されることはありませんでした。

数日前より、改正後の日本国憲法には、国民主権基本的人権の尊重 ・ 平和主義 の3つなど不要だと主張している自民党議員たちの発言とされる動画がネット上に出回っています。

憲法第9条の平和主義に関しては、平和を追求する思いが強い人の間でも賛否が分かれるため、平和主義に関しては置いておいたとしても、国民主権基本的人権の尊重など必要ないという主張は 日本を北朝鮮のような国にしたいのか! という反対意見は、多くの人が共感するところではないでしょうか。


https://www.youtube.com/watch?v=ltgMy3c937E
これがネット上で出回っている動画です。

画像がとても汚いことと、これを観た殆どの人が10日の参議院選挙で自民党に投票しようとは思わないような酷い内容であり、本当の映像なのか? 偽造された動画ではないのだろうか? とさえ思う部分があります。

いずれにせよ、もしも、この動画の発言内容が本当だとしたならば、選挙で選ばれただけの国会議員が、どうして、国民に権利を与えたり、奪ったりする上位に位置する人間だと言わんばかりの 上から発言 が出来るのか、疑問を感じずにはいられません。

あまりにも酷いことをすれば、落選させられてしまうというのが民主主義国家の制度ですが、その盲点を突いて、全てを無力化して独裁体制を確立させてしまったのが、ナチスの全権委任法 でした。

このような酷いことが絶対に起こらない仕組みがあれば、何も恐ることはありませんが、逆に、このような酷いことが起こり得るような危険が少しでもあれば、まずは、その危険を排除する必要があります。



続編として、ナチスによる全権委任法が成立した件に関するBLOG記事を掲載しました。
タイトル 絶対に国民が選挙権を手放しては駄目です! 全権委任法を成立させてしまった苦い歴史の教訓から学ぶべき

 

biryoku.hatenablog.com

 

 

 

 

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ヨーロッパで皇帝を名乗れるのは2人だけでした

 


王様より皇帝の方が格が上です。(権力者が勝手に皇帝職を名乗ることが出来るので例外は存在しますが)一般的に洋の東西を問わず、王より皇帝が格上とされてきました。

20世紀に清朝が滅ぶまで歴代の中国のトップは王ではなく皇帝でした。


紀元前3世紀に500年以上に及ぶ春秋戦国時代の分裂状態を終わらせ中華統一を果たした人気漫画のキングダムにも登場する秦王の政は、王様の更に上の 皇帝 という位を作り、自ら 始皇帝 を名乗りました。

それ以降の中国の歴代王朝のトップは、皇帝 を名乗り、その後、2000年以上も周辺諸国の王様よりも中国の皇帝は格上だという態度を貫きました。

王様の格について、現在のアラビア半島の国々をみると明らかになることがあります。


アラビア半島にあるイエメンは共和国なので別として、オマーンには国王が存在しますが、カタールアラブ首長国連邦を構成する7つの国の長は、アラビア半島内のサウジアラビア王に経緯を払い(遠慮して)王ではなく、(王より格下の)首長を名乗r、周辺地域で誰が格上なのかを示すことで不要な争いを避けようとしています。

21世紀の現在、既に皇帝は存在しませんが、今でもヨーロッパには7人の王様が、オランダ、グレートブリテン北アイルランド連合王国(通称イギリス)、スウェーデン、スペイン、デンマークノルウェー、ベルギーにいます。

ヨーロッパには多くの国に国王がいましたが、過去の歴史を紐解いても(一部の例外を除いて)皇帝だけは2名しかいませんでした。


西暦395年にローマ帝国が分裂した時の地図で、領土が現在のヨーロッパ各国の領土を完全には一致していませんが、赤色の地域が西ローマ帝国、青色の地域が東ローマ帝国として分裂して、それぞれの皇帝が統治を行うことになりました。


上の画像は分裂する前のローマ帝国の国旗には、鷲が描かれていました。

分裂後に100年も経たずに476年に西ローマ帝国は滅亡しましたが、東ローマ帝国は1453年まで続きます。


上の画像は東ローマ帝国の国章ですが、ローマ帝国時代の(頭が一つの普通の)鷲ではなく、双頭の鷲 が描かれています。

西ローマ帝国が滅んだ後、西暦800年にフランク王国カール大帝ローマ教皇より戴冠され、西ヨーロッパでも皇帝位が復活(843年まで)しました。


現在のドイツとフランスとイタリアの一部まで及ぶ広大な地域がカール大帝が戴冠された時代のフランク王国の領土です。

その後、フランク王国はドイツ、フランス、イタリアの3地域に分裂し、紆余曲折を経て、962年にはドイツ王のオットー1世が戴冠され、初代 神聖ローマ帝国の皇帝 となり、以降、ドイツ王が皇帝位を世襲することになります。


初代オットー1世はイタリア北部も支配していましたが、名前こそ ローマ という都市名が付いていますが、実質はイタリアの国ではなくドイツの国です。

15世紀以降はハプスブルク家が帝位を世襲化したため、その本拠地だったウイーン(現在のオーストリア)が神聖ローマ帝国の首都だったと思われがちですが、首都はウイーン以外にも、ニュールンベルク、アウグスブルク、フランクフルトなど、各地を転々と移動していて、チェコプラハ(1346年〜1437年、1583年〜1611年)だったこともありました。


1611年以降は現在のドイツのバイエルン州の東部にあるレーゲンスブルクが首都に固定されました。


現在のレーゲンスブルクは、このような綺麗な景色な街です。

明治維新に移行する際に、当時の日本は江戸時代の鎖国政策と幕藩体制により通称イギリスやフランスなどのように中央集権化がされていなかった遅れを取り戻すためにも明治維新が必要だったという話を中学校の歴史の授業でも教わりますが、ヨーロッパでも分裂状況が長く続いて中央集権化が遅れていた国の代表として、イタリアと並んでドイツが挙げられます。

首都が転々と移動してきた歴史からも解る通り、神聖ローマ帝国の皇帝職を名乗っていても、皇帝のお膝元であるドイツ国内も満足に掌握できていなかったのが実情で、神聖ローマ皇帝を名乗るドイツ王が、フランスなどの周辺諸国の王に比べて、その力が上位な訳では全くありませんでした。


国旗だけは、西ヨーロッパ世界での唯一の西ローマ帝国の後継者であることを自負していたので、東ローマ帝国と同様に、双頭の鷲 が国旗に描かれています。

1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、最後の東ローマ皇帝の姪と結婚したモスクワ大公国の王子が ロシア皇帝 となります。


上の画像のロシア帝国の国章も、双頭の鷲 が描かれていて、東ローマ帝国の後継者であることを誇示しています。

東ヨーロッパのロシア以外の各国の支配者は、王を名乗り、皇帝を名乗らなかったので、東欧世界においても、皇帝は1人という伝統は守られました。

ヨーロッパの皇帝は東西に各1名の2人だけという長く続いた伝統を破った人物はナポレオンです。


神聖ローマー帝国を破り、帝国を解体させた上で、ハプスブルグ家の皇帝には、新たにオーストリア皇帝に就くように認めさせ、自らはローマ教皇に圧力を掛けて、フランス皇帝に即位しました。

ロシアにはロシア皇帝が、西ヨーロッパにはオーストリア皇帝とフランス皇帝のナポレオンの2名が存在する 合計で皇帝が3人 いる状況が発生しました。


双頭の鷲が描かれ、東ローマ皇帝の後継者を自称しているロシア帝国の国章ととても似ているこの国章は、ナポレオンの圧力により、神聖ローマ帝国を解体されたオーストリア帝国にされたもののですが、最期まで西ローマ帝国の後継者である自負を持ち続けていたようです。

1816年にナポレオン1世が完全に失脚した後、その後、彼の甥が再びナポレオン3世(在位1852年〜1870年)として即位(フランス第二帝政)し再び、ヨーロッパで皇帝2名の均衡が再び崩れます。


このナポレオン3世普仏戦争で破り退位させたプロイセン王が1871年にオーストリアを除くドイツ諸国と統一したドイツ帝国を成立させています。


フランスのベルサイユ宮殿の鏡の間で ドイツ皇帝 ウィルヘルム1世 戴冠式が行われ、再びヨーロッパに3人目の皇帝が誕生します。

このドイツ皇帝は、3人目という部分では、ヨーロッパの伝統を逸していますが、分裂していた約30の王国や候国から構成される国のトップとしてプロイセン王が皇帝として君臨するため、王たちの上にたつ者 という皇帝の定義に即したものです。

紀元前27年にアウグストゥスが初代のローマ帝国の皇帝に即位して以来、ヨーロッパに君臨し続けていた皇帝たちは、20世紀に勃発した 第一次世界大戦 により、ロシア帝国ロシア革命により、オーストリア=ハンガリー帝国ドイツ帝国は敗戦により、帝国は消滅し、歴史の中からヨーロッパの皇帝は全てなくなりました。

ヨーロッパではありませんが、同じく第一次世界大戦ではトルコ帝国も敗戦国となり、その後に発生したトルコ革命により1922年に皇帝が退位して帝国は滅亡し、1945年に第二次世界大戦に敗れた日本も国名を大日本帝国から日本国に国名を変えています。


こうして世界中から皇帝が消えていく中で、1976年に中央アフリカ共和国のジャン=ベデル・ボカサ大統領が国名を中央アフリカ帝国と改めて自ら皇帝を名乗りましたが、酷い圧政を行い国民を虐げたため、3年後の1979年にクーデターが発生して、帝国は滅びました。


歴史上の最後の皇帝が、このような圧政と宗主国のフランスへの莫大な賄賂を行った人間だというのは、とても残念な歴史の足跡だと感じます。

 

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EU離脱の国民投票結果によって通称イギリスが正式名イギリスに戻る日


グレートブリテン北アイルランド連合王国(通称イギリス)で僅差の国民投票結果でEU離脱派が勝利しましたが、スコットランドだけを見れば、約62%の人が残留を希望しています。

結果が僅差だったため、投票傾向に対する様々な分析が既にされているようで、高齢者層には離脱派が多い、保守党・労働党の支持層に関係なく高学歴者層には残留派が多いなどの情報が伝わってくる中、地域別の傾向として赤い色が離脱派、青い色が残留派で、スコットランド北アイルランド、ロンドン周辺には残留派が多かったことが解ります。

日本ではイギリスと一般的に呼ばれていますが、正式には グレートブリテン北アイルランド連合王国 という名前の国です。


通称 イギリス ですが、アングロサクソン系のイングランドは地図のブルーの部分で、ピンクの部分はケルト系住民のウエールズ、オレンジ色がスコットランド、緑色が北アイルランドで、この4つの地区の全ての総称がグレートブリテン北アイルランド連合王国です。


ご存知の国旗 ユニオンジャック を紐解けば、国の成立が解ります。


イングランドの国旗です。


こちらはスコットランドの国旗です。


両国が合併(同君連合)した時の国旗で、スコットランドの国旗にイングランドの国旗を重ねたものですが、現在のユニオンジャックとは少し異なります。


征服されたアイルランド(当時)の国旗を重ねて、現在のユニオンジャックが完成しました。


ユニオンジャック完成までの変遷です。

アイルランド第一次世界大戦後に独立戦争を起こし、その結果、1921年に独立してますが、アイルランド島の北東の一部は 通称イギリス に残留しています。


参考までに1921年に独立したアイルランドの国旗です。


尚、こちらがウエールズの国旗ですが、13世紀末に既にイングランドに征服されてしまったため、ユニオンジャックには反映されていません。

2014年の住民投票で独立賛成派が多数を占めたため残留が決まりましたが、もしも、スコットランドの分離独立が決定していたならば、スコットランドの国旗の部分が抜け、ウエールズの国旗の背景(上が白で下が緑)が採択される予定だったそうです。



今回のEUからの離脱に関する国民投票では、約62%の住民がEU残留 を希望したと言われるスコットランドですが、面積は 通称イギリス の 1/3 ですが、人口はわずか 8.4% に過ぎません。

スコットランドの首都のエディンバラは、人口こそ50万人にも満たない都市ですが、通称イギリスの中ではロンドンに次ぐ金融街で、そのような関係からもEU残留を希望する人が多く、EUに残留するために、再び 通称イギリスからの独立 を希望する機運が高まってきたという情報が伝わってきました。

グレートブリテン北アイルランド連合王国より、スコットランドのみが独立する、それ以外の国も独立して、最大、4つの国に分裂するという可能性もゼロではありません。

現在の通称イギリスが、正式名イギリスと、スコットランドウエールズ北アイルランドという国名になることも、有り得る話です。

 


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帝国の滅亡と共に永遠の謎として歴史から消えてしまった秘密兵器 〜 ギリシア火 〜


製造法は極秘で同盟国との共同作戦の時には決して使用もせずに他国には威力すら見せないという徹底ぶりで500年以上も隠し通した秘密兵器が ギリシアと呼ばれるものでした。

西暦395年に東西に分裂した後、繰り返し蛮族だったゲルマン人の侵入を受けて様々な高度な文化も貨幣経済体制も崩壊して100年も経たずに476年に滅んだ西ローマ帝国(首都ローマ)に対し、それから1000年近くも国が続いた東ローマ帝国(首都コンスタンチノープル)の秘密兵器です。


地図上の赤く塗られた部分が西ローマ帝国滅亡時の東ローマ帝国の領土です。

ゲルマン民族の侵入を防ぎきり、更に6世紀中頃の皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリア半島からゲルマン民族を駆逐して帝国の領土が最大になりました。


ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国の領土です。

しかし、東ローマ帝国は、その後、7世紀に成立したイスラム教徒の侵攻を受け続けることになり、早くもイスラム教の国家のウマイヤ朝からの攻撃を受け、首都のコンスタンチノープルイスラム海軍の1000隻の船に包囲され、その戦いは5年にも及び(674年〜678年)ますが、この時にイスラム海軍の軍艦を撃退した兵器が ギリシアだったと言われます。


私の学生時代より世の中に広まっていた、とても リアル感に欠ける 絵ですが、海上で敵の軍艦を燃やし尽くしたと言われる対艦攻撃用のギリシア火の絵を見つけることが出来ませんでした。

前述の通り、同盟国との共同作戦の際には機密漏洩を恐れて使用を厳禁したほどの東ローマ帝国にとっての最重要軍事機密だったため、ギリシア火の主成分についても、硝酸カリウム説、石油説など、諸説が存在しますが、真相は闇の中ですが、水上に浮かぶ敵の船に向けてギリシア火を放射すると、水と反応して、燃焼力が更に増した と言われています。


海上の戦い以外でも、小型で兵士が携帯して使用する 火炎放射器 タイプのものもあったようです。

718年の第二次コンスタンチノープル包囲戦でもギリシア火が使用された以降も、反乱を起こした艦隊との戦い、ブルガリアとの戦争などにも散発的に使用されたようですが、次第にギリシア火が使用された形跡は減り、11世紀以降は、使用された形跡が残っていないそうです。

使用はされていても記録が残っていないのか、あまりに厳格な機密保持を行っていたため作れることの出来る人間が途絶えてしまった、東ローマ帝国の領土が縮小してしまったために主成分を確保できなくなり作れなくなってしまった等の諸説があります。


長くイスラム勢力との攻防、西ヨーロッパ勢力の背信行為と戦い続けて存続を続けていたい東ローマ帝国も、その終焉を迎える約50年前の西暦1400年には、コンスタンチノープル周辺とそれ以外の一部の地区に領土が減ってしまっています。

日本に鉄砲が伝来する90年前、英仏の100年戦争が終わった1453年、20世紀まで存続するイスラム最強とも言われる オスマントルコ帝国 の軍勢20万人あまりにコンスタンチノープルが攻撃されますが、東ローマ帝国軍側の兵士はイタリアの都市のジェノヴァの援軍を加えても7,000人程度しかいなかったと言われます。


コンスタンチノープルは周囲を頑強な城壁で囲まれ、金角湾の両岸を巨大な鉄の鎖で繋ぎ、オスマントルコ海軍の軍艦が湾内に入れないように封鎖します。


イスタンブールの博物館に保存されている巨大な鎖です。

強固な海上の防衛網を打ち破るためにオスマン皇帝のメフメト2世は70隻もの船を陸に揚げて金角湾内に運びこみ攻撃を行ったと言われます。

58日に及んだコンスタンチノープルへの攻撃により、遂に1000年以上も続いた都市が陥落して東ローマ帝国は滅びました。

コンスタンチノープルが陥落した時に金角湾からイタリアのジェノヴァへ向けて何隻かの軍艦が捨て身の脱出に成功しています。

オスマントルコ海軍が本気で阻止すれば、包囲殲滅することも可能だったにも関わらず、東ローマ帝国の軍艦に接近しなかったには、恐怖の伝説的な兵器 ギリシアを恐れたためだという説があります。

既に使われなくなって400年ほどが経過した ギリシアが15世紀中頃のオスマントルコ海軍の軍艦に通用するような兵器であったか疑問ですが、東ローマ帝国の滅亡と共に、詳細は永遠に歴史の謎として、その存在だけが伝説として残った ギリシアオスマントルコ帝国の大艦隊が最後まで恐れていたという話は、何か歴史のロマンを感じます。
 
 


 
 
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学校のテストで不必要に年を問うから本来は全く無用な年号の語呂合わせなどが重宝されてしまう

何のために歴史を学ぶのかと言えば、過去の教訓から少しでも現在と未来を良くするためです。

この意見に反論のある方もいらっしゃるかもしれませんが、私の中では、揺ぎない思いなので、どうか違和感を感じられた方は、ご容赦下さい。

関ヶ原の合戦が行われたのは1600年ですが、学校のテストで1599年や1601年と回答すると不正解になりますが、歴史を本質を学ぶにあたり、この一年の認識のずれが、さして大きな問題になるとは思われません。

関ヶ原の合戦は (   )年に起こりました。

というような、テストを出題することがナンセンスです。

豊臣秀吉が死んだ年は1598年ですが、秀吉を中心にまとまっていた大名たちが、彼が死んだことにより争いとなり1600年に関ヶ原の合戦が起こった訳で、秀吉の死と関ヶ原の合戦が起きた順番を正しく認識していることの方が、よほど大切なことだと言えます。

歴史上の出来事が発生した年を 年単位で覚えさせよう とすることが、愚かです。

刻々と動いた歴史の瞬間では、逆に、同じ年に起きた出来事を順番など度外視して 一括りに年だけを暗記 させても全くのナンセンスです。

一つの例として、時代が大きく動いた幕末の最後を下に紹介しますが、新暦で複数年にまたがりますが、目まぐるしく時代が動くので、年単位では追いつかず、月単位、いや日単位で推移を追っていく必要のあるケースも存在します。


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 大政奉還徳川幕府の終わり)   1867年11月9日

 王政復古の大号令天皇制の開始) 1868年1月3日

 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開始) 1868年1月27日〜

 勝海舟西郷隆盛江戸開城交渉  1868年3月13日〜

 官軍の江戸城の無血入城による勝利 1868年4月4日〜

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調べればすぐに判る細かい年月日まで覚えることが必要なのではなく、細かい出来事は別として大筋では、全国の大名たちを従える力を失った徳川将軍家が次に天皇の名の下で行われるであろう諸侯会議の議長となることを狙って政権を朝廷(天皇家)へ返還したことが 大政奉還 で、徳川慶喜の官位と徳川家の領土を朝廷に返上するよう求めたのが 王政復古の大号令 とそれに続く小御所会議での決定、その決定に不服だった(主に)旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が戦ったのが 鳥羽伏見の戦い で、江戸へ進軍してきた薩摩・長州中心の官軍と江戸城に籠城して戦うことも辞さないとする旧幕府軍が戦って江戸の街が崩壊してしまうことを防ごうと話し合いをしたのが 勝海舟西郷隆盛の交渉 で、その結果、江戸城が無血入城 されたという一連の流れを理解し、その歴史から何か学べることが学ぶことが重要なのです。

歴史から何かを学ぼうともせず、出来事が起こった年の丸暗記能力を問うようなテスト問題など、無意味極まりないものです。

年号語呂合わせ などというものなど、本来は、全く必要のないものです。(私は、学生時代から、年号語呂合わせで覚えるような方法をしたこともありません)

「いい国つくろう鎌倉幕府」 1192年

私が学生だった昔に使われていた、1192年に鎌倉幕府が成立したということを丸暗記するための 語呂合わせ なのでしょうが、これなどは、いかに、こうした語呂合わせが無意味なのかを示す典型的な例です。

古くから源頼朝征夷大将軍となった1192年が鎌倉幕府成立の年と言われてきましたが、最近では幕府機構の成立は、それよりも早かったとする説が最近、唱えられるようになってきました

頼朝が挙兵をして一度は敗れた後、その年の年末には盛り返して周辺の御家人を従えて鎌倉に自分の御所を建てた1180年が鎌倉幕府成立する年だとする説、頼朝の支配地への守護・地頭の設置・任免を許可した1185年だとする説、その他1182年説、1190年説など、数多くの説があるようです。

壇ノ浦の戦いで敗れて平氏一門が滅んだ1185年以降ならば解りますが、たった一代で平氏の栄華を極め、自身も太政大臣にまで登り詰めた平清盛が死亡しのが1181年よりも前に鎌倉幕府が成立していたという説は個人的には、いかがなものかとも思いますが、歴史研究が進めば出来事が起きた年の見解が変わることもあるのですから、いい国つくろう鎌倉幕府 などという語呂合わせが全く無意味だということが解ります。


私が学生の時に教科書に載っていた源頼朝肖像画ですが、こちらも多くの方がご存知のように最近では、この肖像画源頼朝ではなく、鎌倉幕府の次の時代に当たる室町幕府を建てた足利尊氏の弟の足利直義肖像画だという説が有力になってきました。

歌舞伎の勧進帳でも有名な弟の源義経に酷い仕打ちをした源頼朝です。

頼朝に追われ、平泉の奥州藤原氏へ逃げた義経に対して、頼朝は「義経を引き渡さなければ攻め込む」と執拗に脅し、遂に屈服して義経を討って、その首を届けた奥州藤原氏4代目の泰衡に対して「引き渡すように要求しただけで、何で弟を殺害したのだ!」と因縁をつけて、結局は大軍勢で攻めて平泉を滅ぼしてしまう性格の悪さを、源頼朝は歴史的な事実として存分に示します。

三白眼のいかにも陰険で性格の悪そうな雰囲気を醸し出している肖像画だったために、長い年月、源頼朝だと信じられていたのではないだろうかと私は思っています。

せっかくでも歴史的な出来事の起きた年を覚えた(または調べた)のならば、世界の他の場所で、同じ時期に、どのようなことが起こっていたのかを見渡してみることも良いかと思います。

ちなみに、さきほど鎌倉幕府の成立が何年かという諸説(1180年〜1192年まで多岐にわたる)と同じ頃の出来事を調べてみると、エジプトのアイユーブ朝の始祖サラディンが1187年に征服してキリスト教徒からエルサレムを奪います。

それによりローマ教皇グレゴリオ8世の呼びかけで1189年より第3回十字軍が行われますが、同年に即位したイングランドプランタジネット朝の王のリチャード1世も参加しています。


この第3回十字軍はサラディンリチャード1世が休戦協定を結び1192年に集結するのですが、日本の鎌倉幕府の成立の時期と同じ頃に、中東ではキリスト教徒とイスラム教徒が戦争をしていました。

現代も続いているキリスト教イスラム教の対立、更にそれにユダヤ教が絡み合う複雑な対立の原点とも言うべき十字軍(1096年に始まった第1回から1272年に終わった第9回まで)が行われていました。


 
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実は冬将軍が到来する前に破綻していたナポレオンのロシア遠征軍

 


トルストイの小説「戦争と平和」やチャイコフスキーの序曲「1812年」などの題材にもなっているナポレオンのロシア遠征は、一般的に冬将軍に敗れた言われ(動員兵力などには諸説ありますが)70万人だったナポレオン軍の中でフランスに生還できたのは 5,000人 しかいなかったと言われ、生還率は0.7% という酷さです。

同じく冬将軍(ロシアの冬)に負けたして、という点では、1941年に開始されたヒトラーソ連侵攻が1812年のナポレオンのロシア遠征と共に語られることが多く、私もヒトラーソ連侵攻と比較で、ナポレオンのロシア遠征を紐解いていきたと思います。

多くで語られている通り、ナポレオンの攻撃開始日が(1812年の)6月23日、ヒトラーの攻撃開始日が(1941年の)6月22日で1日違いですが、それぞれの出発地点(攻撃開始場所)が、何処だったかにまで言及されているケースはあまりありません。

攻撃目標はモスクワと同じですが、ナポレオンの本拠地のパリからモスクワまでの距離は 2,500km 、ヒトラーの本拠地のベルリンからモスクワまでは 1,600km で、2つの攻撃の本拠地からのモスクワまでの距離が相当に違います。

攻撃を開始したとされる日に、2つの時代の侵攻軍が何処の場所にいたのかを把握することはがとても重要です。


ナポレオンが攻撃を開始した日の攻撃開始場所はパリではありません。(それよりも早くパリを出発していました)

ナポレオン軍は、フランス軍だけでなく、当時のフランスが支配下に置いていた、ワルシャワ公国、イタリア王国ナポリ王国、ライン同盟、スペイン王国スイス連邦からの軍隊に加え、同盟国としてのオーストリア帝国プロイセン王国の軍隊から構成されており、70万人と言われた全軍のうち、フランス軍は45万人で、それ以外は支配下の国または同盟国の 混成大部隊 の軍隊で、これらの多国籍軍が集結して、現在のリトアニアのネマン川を渡り、ロシアへの攻撃を開始した日が6月23日でした。

同様に1941年6月22日のヒトラーソ連侵攻の出発場所は、独ソ不可侵条約の秘密議定書 に則り、ドイツとソ連で挟撃してポーランドを分割して出来た独ソ間の国境線でした。

(私は)ナポレオンが渡ったとされる場所がネマン川の流域の何処だったかを調べきれませんでしたが、1941年当時の独ソ国境の位置は調べられ、攻撃を開始した場所からのモスクワまでの距離を(概算で)計算することが出来ました。

モスクワまでの距離を算出は、1941年の独ソ国境近くの街だった(ソ連領)ブレスト(旧名:ブレスト=リトフスク)を概算距離を算出する地点として選定して、モスクワまでの直線距離にプラスアルファして、モスクワまでの距離を1,350knと(仮定)しました。

尚、このブレストという街は、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり誕生したソビエト政府は、帝国主義戦争から離脱するために不利な条件ながらもドイツとの講和を結び、戦争から抜けますが、ドイツと交渉して講和条約を結んだ場所がブレスト=リトフスクであり、その街の名前により、ブレスト=リトフスク条約 と言われています。

その後、ドイツが第一次世界に負け、ソ連により条約破棄が通告され、その後のパリ講話会議でもこの講和条約の内容は否定されrため、ブレスト=リトフスク条約は実質8ヶ月という短い期間しか有効ではありませんでしたが、第一次世界大戦後のドイツやソ連、東ヨーロッパ諸国に様々な禍根が残り、第二次世界大戦の原因のひとつとなりました。

話を戻します。

場所が特定出来なかったナポレオンの攻撃開始地点のネマン川も、川の流れる位置を大雑把に地図で見ると、ブレストからモスクワまでの距離と似たようなものだったので、同じくモスクワまでの距離を1,350knと(仮定)しました。

どうして、執拗に攻撃を開始した日やモスクワまでの距離にこだわるかと言うと、ナポレオン軍の進軍速度の速さ が一つの重要な鍵だからです。

兵士ならびに補給物資の移動はナポレオンの時代は馬と人力ですが、ヒトラーの時代は戦車やトラック、航空機もありました。

戦争なので、ただ移動するだけでなく、敵と戦いながら進んでいくので、一概には比べられませんが、何と、馬と人力しかなかったナポレオン軍の方が2倍以上の圧倒的に速いスピードでモスクワへ攻め込んでいます。

ナポレオン軍は攻撃を開始して 83日目 の9月14日には、既にモスクワに入城しています。

一方、ヒトラーソ連軍はモスクワの約20km手前までは攻め込んでいますが、ソ連軍に撃退されたためモスクワに辿り着くことは出来ませんでしたが、モスクワに最も近づいたと言われる日が、侵攻を開始して 166日目 の(1941年の)12月5日です。

ナポレオン軍は 1,350km を83日で進んだので、1日平均で 16km以上 進んだ計算になり、ヒトラーのドイツ軍は 1,350km から 20km を減じた 1、330km をナポレオンのちょうど2倍の166日を費やして進みましたが、1日平均で 約8kmしか 進めていない計算になります。

ナポレオン軍は、機械化されたヒトラーのドイツ軍の倍以上の速度で進撃 していたのです。

モスクワのみを目指して進軍したナポレオン軍とは異なり、ヒトラーのドイツ軍はモスクワ以外にも北方のレニングラード(現サンクトペテルブルク)と南方のコーカサス地方を攻める3つの大きな軍団があり、他の軍団との関係でモスクワを目指していた軍団も進軍を途中で停止させていたこともあり、一概にナポレオン軍との比較は出来ない部分もありますが、モスクワへの進軍途中でナポレオン軍の方がロシア軍との戦闘が少なかったことは間違いありません。

ナポレオン軍のモスクワへ攻めのぼる中での大きな戦いは2つしかなく、約500km手前の死傷者が約 9,000人のスモンレスクでの戦い、モスクワ手前の死傷者が約 50,000人のボロジノの戦い(モスクワ川の戦い)です。


ロシア軍は戦力を温存しながら占領してくるナポレオン軍には、物資を調達させない 焦土作戦 を徹底的な行い、全てのライフラインを停止させて、モスクワからも撤退したため、攻撃開始から83日後の1812年9月14日にナポレオン軍は無血入城しました。


出発時に60万人〜70万人だったと言われたナポレオン軍は、計算上、途上の2回の戦いの死傷者をマイナスしても、40万人から50万の兵力でモスクワに入城している筈でが、実際にモスクワへ入城した兵力は 10万〜11万人ほどしかいなかったと言われています。

これは、モスクワに入城するまでに 何と 8割以上の兵がいなくなっている 計算になります。

戦闘による死傷者より、飢えや疲労などでの逃亡 により脱落する兵の方が圧倒的に多かったと言われます。

これほどまでに多くの兵が脱落した原因は、あまりにも早い進軍のスピード でした。

圧倒的なスピードで、防衛陣地を築いて迎え撃とうとしたロシア軍に、その隙を与えさせずに撤退させる効果は確かにありましたが、そのスピードについていけないで脱落する兵の数があまりにも多すぎます。

開戦時のロシア正規軍も20万人近くの人数がいたと言われ、その後に加わった正規軍とそれ以外の民兵や武器を持って戦った農民など兵力は、最終的にはトータルで90万人にまで達したとも言われ、少なくとも正規軍の人数でナポレオン軍がロシア軍を下回ってしまうことは決定的な不利を意味します。

しかし、モスクワの手前でのボロジノの戦い(モスクワ川の戦い)でのナポレオン軍とロシア軍の兵力は、双方 15万〜20万人 で、圧倒的な兵力を誇っていたナポレオン軍の兵力が既に激減していたため、ロシア軍とほぼ同数になってしまっていました。

双方の弾薬が尽きてロシア軍が撤退したため、ボロジノの戦い(モスクワ川の戦い)の勝敗は決することなく終わりましたが、ロシア軍よりナポレオン軍の死傷者の方が多かったとも言われています。

物資や食糧が手に入るとの期待が裏切られたばかりでなく、ナポレオン軍のモスクワ入城直後に、ロシア軍の仕業だと思われる大火が発生し、街を3日に渡って焼き尽くしました。


モスクワを占領したナポレオン軍は、3回に渡り和議交渉を行いましたが、勿論、ロシア側が応じる訳がありません。

冬の到来とロシア軍の反撃を恐れたナポレオンは、入城35日後の10月19日に、物資や食料がなにもないモスクワからの撤退を開始しました。


随所でロシア軍の追撃を受けながらも進軍時よりも早い行軍の 55日 の12月14日にロシア領内から逃げ出しました。


その後、ナポレオンと共にパリまで辿り着けた兵は 5,000人 にしか満たず、撤退時にモスクワにいた 11万人の 4.5% にしか満たず、いかにナポレオンが自分の保身のみを考えて逃げ帰ってきたかがわかります。

冬将軍の到来のために敗れたと言われていますが、数(兵力)の点からしても、相手の土俵であるロシアの大地で、冬の到来前に既に兵力で逆転されてしまった時点で、ナポレオン軍は破綻してしまっていたようです。

逃亡などで自軍の兵力が激減した途中の時点でナポレオンは不安を感じなかったのだろうか? 不安を感じたのであれば、どうして被害が大きくなる前に撤退しようと決断できなったのだろうか?

多くの疑問の残るロシア遠征です。

 

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火山灰で埋もれたポンペイの街が伝えてくれたアレキサンダー大王


歴史上、初めて世界帝国(多数の民族を支配下の置いた大帝国)を打ち立てたアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の顔として、私の学生時代の歴史の教科書にも載っていました。

アレキサンダー(紀元前356年〜紀元前323年)は、マケドニアの王子の時に父と共に南の古代ギリシア諸都市を屈服させ、王に即位した後に世界帝国に向けて動き出します。

ブルガリア語に近い現在のマケドニア語とは異なり、アレキサンダーの時代のマケドニア語はギリシア語の方言のような言語だったそうで、言葉(言語)が異なっていなかったからこそ、王子時代に、彼の家庭教師をつとめたのは、あの古代ギリシアの偉大な哲学者のアリストテレスでした。

アリストテレスプラトンの弟子であり、プラトンソクラテスの弟子なので、古代ギリシアの偉大な哲学者3人連なる師弟関係の延長線上にアレキサンダー大王が位置していたことになります。

アレキサンダーより更に1世紀前の ペルシア戦争 で、侵略してきた アケメネス朝ペルシア帝国 古代ギリシアのポリス連合軍が3回に渡って戦い、撃退しました。


ペルシア戦争ギリシアポロス同盟が撃退した アケメネス朝ペルシア帝国 の領土は広大で最大時は上のような領土を有していました。

インドへも攻め込み、冒頭で私もアレキサンダー大王が史上初の世界帝国を作ったと記しましたが、その領土は、滅亡させたアケメネス朝ペルシア帝国の領土にマケドニアギリシアを加え、東部のインダス川方面に少し拡大しただけで、あまりペルシア帝国の領土と広さは変わらないものです。


上の地図はアレキサンダー大王が作り上げた帝国の領土です。

アレキサンダー大王の凄かったところは、ペルシア帝国と交えた何度かの会戦では、常に数倍の兵力のペルシア軍に勝利していったところです。


そのような戦いの一つで、ダリウス3世(ダレイオス3世)が率いる10万とも30万人とも言われたアケメネス朝ペルシア軍を4万人の兵で打ち破ったとされる イッソスの戦い の壁画です。


壁画の一部分をクローズアップしました。冒頭に紹介した教科書にも載っているアレキサンダー大王の顔があります。


同じくダリウス3世の顔も描かれています。

2,300年以上も前のアレキサンダー大王の顔と言われる壁画を今日まで伝えてくれたものは ‥‥

ある 悲しい出来事 が関係しています。

アレキサンダー大王が生きた約350年後、今から1950年近く昔の西暦79年にイタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火して古代ローマの都市のポンペイ(推定人口2万人)などの周辺に火山灰を降り注ぎました。


大噴火が起こり、街を捨てて逃げた市民の多くは生命が助かりましたが、火山灰が降り注ぐ中で何らか理由で街の残っていた市民には、噴火発生から約12時間後に発生して襲ってきた 火砕流 により、ポンペイの街が壊滅してしまいました。


ポンペイ市民を救助するために船で向かった 軍人 兼 学者のプリニウス は、火山から発生したと推測される有毒ガスにより死亡してしまったことが記録に残っています。

火砕流で街が壊滅した後も大量の火山灰が降り注ぎ、ポンペイの街は火山灰で覆い尽くされて埋もれてしまい二度と、この地に街が作られることはなく、西暦476年にはローマ帝国西ローマ帝国)も滅亡し、言い伝えと散発的に発掘される遺品から、過去の街が存在していたことは知られていたものの、発掘が開始されたのは18世紀に入ってからです。


現在では、全ての火山灰が取り除かれ、ローマ時代の街並みが姿をあらわしています。





街並みだけでなく、広場の水溜後も


建物内の調理場なども発掘されています。





遺体は腐って積もった火山灰が空洞化した所にコンクリートを流し込むことで、亡くなった当時の姿が復元されています。






建物に飾ってあった数々の壁画などの絵も数多く発掘されています。

発掘された数多くの絵の中の一つが、既に紹介したポンペイから発掘された イッソスの戦い を描いているとされる モザイク画 です。


アレキサンダー大王の死後、300年以上経って作られたモザイク画なので、この絵が本人と似ていたかどうかは解りませんが、貴重な彼の絵をポンペイの火山灰が後世に、その姿を伝えてくれたのです。

本の学校教育の場では、アレキサンダー大王のことも、古代ローマの都市のことも扱いますが、この2つの結びつきについて触れる機会は少ないと思われ、その点は少し残念に感じます。

 

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戦争の最中でも良心を失わなかった人間の素晴らしさ 自然発生的に発生したクリスマス休戦

 

今から100年以上前の1914年8月に人類が今まで経験したことのない未曾有の悲惨な第一次世界大戦が勃発しました。

第一次世界大戦は主戦場が欧州で、日本の出兵は、地中海への護衛艦派遣以外は、青島(中国)や南太平洋に限られていたため(戦死者は300人〜1,000人ほどと言われている)、日本人は世界大戦と言えば第二次世界大戦を思い浮かべますが、ヨーロッパでは、世界大戦というと 第一次世界大戦 を指すようで、それほど被害が大きな戦争だったことが、うかがえます。

どうして第一次世界大戦が起きてしまったか ‥‥ については、この過ちを繰り返さないことを自らに言い聞かせてケネディー大統領は キューバ危機を回避 させることに成功しているように、現代の私たちも学ぶべきことが多くある教訓です。

この辺については、いずれ別の機会にBLOGに載せようと思っております。

第一次世界大戦の概要は下記の通りとなります。

期間
1914年7月28日 〜 1918年11月11日

勝敗
協商国(連合国)側が勝利して中央同盟国側が敗北

各陣営の構成(協商国側は多数のため、主な国を記載)

中央同盟国側はドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国ブルガリア王国の4ヶ国

協商国側はフランス共和国北アイルランドグレートブリテン連合王国(通称イギリス)、並びにその自治領(オーストラリア、カナダ、ニュージーランドニューファンドランド南アフリカ連邦、英領インド帝国)、ロシア帝国セルビアモンテネグロ王国ベルギー イタリア王国大日本帝国ルーマニア王国ポルトガルの旗 ポルトガル共和国、アメリカ合衆国ギリシャ王国 その他多数

協商国側の国の一つのベルギーが第一次世界大戦の一つの鍵となる国です。

ベルギーは上の地図のドイツの西隣の水色で示した国です。

1839年にベルギーはオランダ(地図上でベルギーの北にある黄色)から独立しますが、その独立時の条件として 永世中立国 (未来永劫、どこの国とも同盟を結ばず中立の立場を貫く国)を保つことが国際的に取り決めされました。

独立したベルギーがフランス、ドイツ、イギリスなど、いずれかの国と同盟を結ぶと、西欧主要国のパワーバランスが崩れてしまうことを恐れた各国が、ベルギーを永世中立国化させることで合意し、この国際バランス感覚は20世紀に入っても継続されていました。

第一次世界大戦開始時に、ロシアとフランスは同盟関係を結んでいたため、戦争となればドイツは東西から挟撃されることになり、とても勝ち目がないことは明らかでした。

そのためドイツには、圧倒的な不利な二正面作戦を打破して勝利に導くための シュリーフェン・プラン という軍事計画が19世紀末より作られていました。

領土の広さ、人口の多さを誇るロシアの弱点はスピードの遅さで、ロシア軍が体制を整えてドイツ東部に進行してくるには、二ヶ月ほどの時間がかかると想定し、ロシア軍が攻めてくる前の6週間で、全力でフランスを攻めて勝利するというのが、シュリーフェン・プランの主旨でした。

6週間という短期間でフランスに勝利するためには、防御を固めている仏独国境ではなく、永世中立国のベルギーを通過して最短ルートでフランスの首都のパリを目指すものです。

勿論、永世中立国のベルギーを通過してフランスを攻撃することは、明らかな 国際法違反 に当たりますが、そうしなければ敗北は必至だとドイツ帝国は考えていたようです。

ドイツ軍が、脅せば無抵抗で軍隊を通過させると考えていたベルギー軍は、ドイツ軍の通過を拒否してベルギー軍とドイツ軍の間で戦闘が開始されました。

中立国のベルギーを攻撃したことを理由に北アイルランドグレートブリテン連合王国(以降は通称のイギリスと表記します)がドイツに宣戦布告しました。

ちなみに日本はイギリスの参戦により日英同盟を理由にドイツへ宣戦布告することになるのですが、後にイギリスやフランスから欧州の西部戦線への日本陸軍の参戦を要請されますが、これを日本は断っています。

ドイツ軍の予想に反してベルギー軍が戦いを挑んできたことで、結果的にはドイツ軍はベルギー軍に勝利したものの、ベルギー国境を越えてフランス領に侵攻するめでに二週間を要すことになりました。

予定を遅れながらも勝利を重ねたドイツ軍はパリまで30kmの地点のマルヌ側まで侵攻したものの、フランス・イギリス連合軍と決戦を行った マルヌの会戦 で勝利することが出来なかったドイツ軍(両軍とも決定的な勝敗をつけることは出来ず、ドイツ軍が数十キロ後方のエーヌ川沿いまで撤退したことで終結しました。

ドイツ軍はマルヌの会戦で勝利することが出来ず、シュリーフェン・プランは挫折して、以降、西部戦線は、塹壕を掘って進軍してくる敵兵を機関銃で迎えうつ睨み合いとなり、戦線は膠着しました。

塹壕を堀り、機関銃その他の銃で防御を固めた場所へ攻め込む場合、防御側が圧倒的に有利で、攻撃側は多大な被害を被ります。

塹壕のない場所から迂回して攻め込むことが得策なので、塹壕の背後へ攻め込もうと考えます。

両軍とも同じことを考えるため、敵に回り込まれては大変 だと思い、塹壕の未設置箇所への塹壕の構築を行います。


同じことを両軍が考えたため、瞬く間に北は北海沿岸から南は中立国のスイス国境に至るまでの 約600km に渡り、両軍が塹壕を構築して睨み合いを行いました。


近い所では両軍の塹壕間の距離は30mしかなかった言われ、塹壕から身体を出せば、瞬く間に敵の銃で狙撃され命を失います。
敵に攻め込むことは出来ないが、24時間、警戒を怠ることは決して出来ない緊張した戦場で、不衛生で寒暖の環境も劣悪な場所で、健康を概して命を失っていく兵士も少なくなかったようです。

戦争が勃発した時には、悪魔の熱気 に誘われて、両陣営の若者たちが祖国愛の名のもとに 志願兵 として、自ら戦場へと趣いていきました。

彼らの多くが、(8月に始まった)戦争はクリスマス前には決着することだと思っていました。

しかし、現実は全く違って、予想もしなかった大量殺戮平気の登場により次々と大量に多くの若者の生命が失われていき、1914年のクリスマスまでに 100万人 もの生命が失われてしまっていました。


自国の勝利を祝いながら迎えるクリスマスなどとはほど遠い、寒く劣悪な環境の塹壕の中で、両軍の兵士たちはクリスマスを迎えようとしていました。

そんな悲しいクリスマスイブの塹壕から、きよしこの夜」 を歌う歌声が聞こえてきました。

その歌詞はドイツ語であったり、英語であったり ‥‥‥ 。

耳を澄ませて聞くと、敵も味方も、同じことを思って きよしこの夜」 を歌っていたのです。

敵側の異国語の歌に自国語を重ね合わせることで 塹壕を隔てた両軍による合唱 が響き渡りました。

そっと塹壕から頭を出して相手方を除くとクリスマスキャンドルの灯も見え、敵も味方も同じ思いでいることが解りました。

勇気を出して塹壕から身を乗り出すと、相手も同じように塹壕から身を乗り出していました。

発砲されれば、瞬く間に生命を失ってしまう丸腰の状態のまま、お互いの兵士が一歩ずつ歩みより、遂には握手を交わし、お互いの食べ物や飲み物、お酒やタバコを交換しながら、通じるか通じないかは別として、言葉を交わしながら、両軍兵士が一緒にクリスマスを祝った そうです。

誰に命令された訳でもない、このような 自然発生的な局地的な休戦 が、間違いなく存在したと確認されているだけでも、30事例ほど存在するようです。



この奇跡的な休戦は、クリスマスイブの夜から12月25日の日没まで続いたそうで、証拠の写真も現存しています。


この休戦は長い所では、1915年の新年まで続き、塹壕塹壕の間の土地でサッカーの試合も行われた記録まで残っています。

しかし、こうした休戦を望まない人もいました。

家族や友人、戦友を殺された人だけでなく、両軍の軍の上層部は、こうした自然発生的な休戦を快く思わず、最終的には軍の命令として、この休戦は終わりを告げることになり、続く1915年、1916年、1917年のクリスマスには、このような自然発生的な休戦は発生しなかったようです。

軍の上層部の人間以外にも、ドイツ軍の伍長として西部戦線に参戦していたオーストリア人のアドルフ=ヒトラーは、こうした休戦に対して不快だと、自分の気持ちを漏らしていたそうです。


 
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立水栓を作って便利に使う(散水栓から立水栓への改造)


我が家の庭の玄関前と奥の2箇所にあるホースが繋いである散水栓が不便だったので、前々から立水栓に改造したいと思っていました。

上の写真は玄関前の庭に作った立水栓の完成写真です。

散水栓の蛇口から水道管を延長して 立水栓 を作れば出来るのではないかと思い、レンガを買ってきました。

このレンガ、縦横の寸法比が1対2でないことと安価だったので選んだのですが、普通のレンガと比べて 歪(いびつ)なことが、あとで大変な苦労をすることになりました。

上の図のようにレンガを4つ並べて、レンガの間をモルタルで埋めて接続して積み上げていきます。

水と混ぜることでモルタルが完成するインスタントモルタルですが、水の量により完成するモルタルの濃度が違ってくるので、その割合は様子を見ながら勘で進めていきます。(理屈で何対何とやっても、あまりうまくいかないようです)

とはいえ、モルタルを扱うのも全く初めての私には、綺麗にモルタルを使ってレンガを積み上げることなど出来ませんでした。

結局はレンガを綺麗に、ほぼ正確な位置に配置して積み上げることが出来ず、写真のように汚く、歪(いびつ)な出来栄えの完成品しか作ることが出来ませんでした。

この写真も初回の作品ですが、ある程度、不細工な出来になることは想定していたので、ある意味、お客さんなどの目に触れす機会の少ない庭側を 練習台的 に作ってみたもので、この経験を次に活かせば ‥‥ と思っていました。

尚、見栄えは悪いですが、機能は全く問題なく、水滴などの漏れもなく、便利に使うことが出来ます。

さて、この次が、ある意味で 本番勝負 の玄関前の立水栓作りです。

設置予定場所で、雑草も生え放題の綺麗とは言い難い場所でした。

最初に前側の境界線としてレンガ4個を並べてモルタルで接続しました。

地中深くに根を張る雑草のドクダミも生えていたので、15cm〜20cmほど土を掘り、砂利で埋めた上にモルタルで固めました。

立水栓とその周辺部とそれ以外の場所の境目としてのレンガを敷き詰めました。

また、前回の失敗を踏まえて、レンガ4個をズレずに並べるための木枠も作ってレンガの設置に使いました。(結果論といては、この木枠は、並べる時の目安としては有効でしたが、思ったほど、役立つものではありませんでした)

4段ほどレンガを積み上げた時の写真で、中央には地面より刺した鉄筋2本が入っていて、地震時などにレンガが倒壊しないよう対策しています。

前の写真にも写っていましたが、鉄筋に沿うように針金で結んだ水道管を入れています。

後ろ側は写真のような感じでレンガの塔より水道管を出しています。

レンガを積み上げ、ようやく蛇口の高さまで来ました。

的確な場所に蛇口を収める ことには、かなり神経を使います。


また、後々、何かに役立つかもしれないと思い、100円ショップに売っていたiPhone用の金具の一部を鉄筋に結んでレンガの外に出しておきました。


少し不細工な部分はありますが、何とか無事に蛇口(2つ蛇口タイプ)を取り付けることが出来ました。


約1m離れた地中にある散水栓の蛇口に、このようにして水道管を延長させます。

ペンチでしっかりと締めることで水漏れを防止できます。

こんな感じで奥に写っているレンガを積み上げた塔の方向へ水道管を伸ばしていきす。

この水道管はフレキシブル水道管というもので、自由に曲げられるので、とても便利です。(間違えて曲げてしまうと、完全な直線には戻せにないので、注意は必要です)

こうして、水道管の延長が完成しました。

次は僕の こだわり の箇所です。

立水栓のレンガの塔の屋上部分に猫を載せて飾ります。

これ、100円ショップで見つけたもので、出来るだけモルタルで平にした上に、周囲に石を敷きました。

しかし、どうしても、隙間にグレーのモルタルが見えてしまうので ‥‥ 悩んだ挙句 ‥‥。

上からスプレー式の白いペンキを吹きかけて、上の写真のように仕上げました。

最後に後方にモルタルで固めて雑草対策をした場所に土を被せました。

この写真が、正面から見た完成写真です。

側面に出しておいた、何かを吊るせる取っ手に、タワシブラシをぶら下げました。


蛇口から出た水を排水する排水管が近くにないため、下には、石を敷き詰めてあるので、注意して出しっ放しなどにしなければ、不具合を生じることもありません。

お陰様で無事に完成し、便利に水を出したり止めたりして使うことができます!

尚、多くの方の散水栓から立水栓への改造を紹介しているサイトでは、水道の元栓を絞めて散水栓に至る蛇口から立水栓への新たな水道管に切り替え工事を行い散水栓の蛇口を取り外す工事を行っているようですが、私のような素人の者には、このような難易度の高い工事は無理なので、散水栓の蛇口はそのまま残し、散水栓の蛇口の先からフレキシブル水道管を使って、管を延長する方法を行いました。


最後に‥‥
私の場合、2つの立水栓を作るために材料などを一緒に買ったことや自分で細かく費用を記録していなかったこともあり、詳細を示せないことが悔やまれますが、ネットで見る限り、業者さんにお願いすると 45,000円程度の費用が必要のようですが、 私の場合は、1つの立水栓にかかった材料費は約1万5千円程度だった(2つで3万円ぐらいだった)ので、見栄えは別として、業者さんにお願いするよりも、安く作ることが出来ました。


完成後、既に4ヶ月以上が経過した時点での追記:
一度も水漏れなどの不具合もなく、とても便利に使っています。




( 続く )
 
 
 
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勧誘・セールスの迷惑電話を撃退(私の対処法)


本日の午後、楽しみにしていた真田丸の再放送を観ていた時に電話がありました。

名古屋駅前のマンションを今、購入すると資産価値があがるので、数年後に転売すれば相当な利益が期待できる‥‥という話を一方的に話してきます。

電話の向こうには、きっと不正入手した個人情報に基づき、私以外の家にも他の人間が勧誘電話の会話をしている声が聞こえる 典型的な 勧誘・セールスの迷惑電話 な雰囲気でした。

興味が全くない! と言っても、相手は電話を切って引き下がろうともしなければ、下手な対応をすれば、因縁をつけられて不愉快な思いをします。

一応は、私も全く関心がない旨を伝えても、全く意に介さずに一方的に話し続けようと相手はしてきます。

ここは敢えて 抗わず に、次のように私は伝えました。

「私は全く興味がありません。しかし、貴方にもお仕事上のメンツもあるでしょうから、直ぐに私に電話を切られるのも困るでしょう。どうぞ、私はいつまでも、お付き合いしますから、ご自身でご納得いただくまで、電話で話をしていただき、もう十分だと感じられた時に、一方的に(そちらで)電話をお切り頂いて構いませんので、気が済むまで、どうぞ、お話下さい!」

と言いました。

相手は一歩的に(いかに素晴らしい投資話なのかを)電話で話をしています。

私は相槌など、勿論しません。

電話を常に耳にあてて話を聞いている訳でもなく、途中で電話を置いてトイレに行ったりもしていました。

通話時間7分42秒。遂に諦めて、相手が電話を切ったようです。

この手の迷惑電話で共通して言われることに、こちらから一方的に電話を切ると、逆上して、繰り返して電話をしてくる場合もありますが、このように電話をしてきた相手に自分から電話を切らせれば、再び電話をしてくることはありません。

 

 

 

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腸内細菌全体の75%は日和見菌だそうです。


人間は善人と悪人だけではない‥‥というBLOGに対して、早速に私の本名を知っている友人から直接から素晴らしい言葉を頂戴したのでBLOG化させてもらいました。

私のBLOGは 腸内菌の善玉菌と悪玉菌と日和見と同じだとコメントを下さりました。

腸内の細菌の大多数が善でも悪でもない 日和見 ということも、善人や悪人よりも 理屈屋 の方が多数だというのも似ていると言ってくれました。


友人のコメントが鋭く深いものなので、紹介させていただきます。

−−−−−−−−−−−−−−−

環境が良いと日和見菌は良い菌になって、環境が悪くなると日和見菌は悪い菌になるようです。

それって、当に人間の世界と一緒ですよね。

でも、人間には知恵があります。

日和見菌と一緒では困る訳で、良識をもった行動が求められていると思います。

もしかして、菌の方が合理的だったりして…最近の社会情勢を観ていると、そう感じる時もあり哀しいです。
 
−−−−−−−−−−−−−−−


 
私も意見を下さった友人も医学の専門家ではありませんが、分別がある‥‥と言われる人間の方が細菌より劣るのであれば、本当に哀しい話です。


人間は三種類に分類される 善人と悪人と‥‥もう一つは?
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/0c2047129cca966ac11f3b10e6263c6d


私が日和見菌について参考にさせていただいたURLは下記となります。
http://zendamakin.jp.net/hiyorimikin.html

 

 

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サワコの朝に出演された脳科学者の中野信子さんのIQは148以上

お名前程度しか存じあげていなかった脳科学者の中野信子さんが23日のTBS系の阿川弘之さんのお嬢様の阿川佐和子さんのテレビ番組「サワコの朝」に出演され、そのお人柄や偉大な学問的功績を知り、とても面白く番組を観させていただきました。

番組冒頭で、日本人の平均IQが106〜110、東大生の平均IQが120といわれる中で、ご自身も東大卒の中野信子さんはIQは148以上という驚異的な頭脳の持ち主だと紹介されました。

私が掲載中の 「心の偏差値」 というシリーズの第01話の冒頭で

知能指数が30近く違うと会話が成立しない という言葉を記しています。

・シリーズ「心の偏差値」の第01話、銀閣寺の写真を載せたBLOG記事のURLとなります。

 

 


 この理屈からすれば、148もの高い知能指数中野信子さんは、 周りの人との会話が成立しなかった筈 で、ご出身の東京大学の半分程度の仲間とは会話が成立しなかった筈で、その辺の真偽がどうだったのかが気になりました。

番組では、その辺の回答も明かされていました。


「実は私、学生時代の頃から友人がいないで孤独で友人が全くいなかったのです。
その辺を解明したくて、中学生の頃に学問を極めて探求してみたいと思うようになった‥‥」


とのご本人の告白がありました。

‥‥やはり、知能指数が高すぎても、周りの人間と噛み合わない苦労 があるのだと思いました。

しかし、それと同時に、その溝を究明するために学者を目指して学者になって成功し、今では(知能指数が離れた)一般人との会話も成立させられるという素晴らしい話を番組で聴かせてもらいました。

知能指数「心の偏差値」 いずれの場合でも、大きく離れている人との会話などのコミュニケーションの成立は、現実問題として、かなり難しいことがわかりました。

また、同時に、それを解決するための鍵も、おぼろげに見えてきたような気がしました。

それは、きっと なのだと‥‥。

徳を磨くことが、とても重要なことだと‥‥‥。

素晴らしい番組を観て、自分自身がもっと鍛錬しなければ‥‥と思った次第でした。




中野信子さんの公式BLOGのURLです。
http://ameblo.jp/nobukonakano/


番組出演に関する関連記事のURLです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160120-00000001-maiall-ent

 

 

 

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日本人男性の優しさの証 小正月の風習を紹介します


正月にも大正月と小正月があるのをご存知でしょうか?

それぞれの期間については、様々な解釈、諸説がありますが、概して言うならば、現代の日本人が言っている元日から始まる正月が 大正月 で、大正月の終了後の1月15日を中心とするのが 小正月 です。

神様やご先祖様の霊を敬うような行事が多く行われる大正月に対して、小正月では豊作祈願などの農業的な事柄や家庭的な事柄の行事が多く行われ、小正月では男性が代わりに家事などを行い女性に休んでもらう風習が続けられていた地方もあるとのことです。

また、かつては小正月 元服の儀 を執り行われていたことから1999年までは1月15日が成人の日と定められていました。(2000年以降は1月の第2月曜日)

また、小正月には、小豆粥 を食べる習慣もあり、小豆粥のつくり方は下記のURLに載っていましたので、私も読んで参考にさせていただきました。
https://www.bioweather.net/recipe/0901n/r0901n_06.htm

昨日(1月15日)は、お粥の代わりに我が家では、赤飯を炊いて仏様にもお供えしました。

 

 


 
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的中率15%の占い師をスカウトした王様の話


時代は中世。 とある国の王様の話です。

宿敵の隣国と最終対決をすべき時が迫ってきたかもしれない‥‥と感じた王様は、戦(いくさ)をすべきかどうかの決断に迫られていました。

この戦に負けてしまえば、国が滅んでしまう重大な戦いです。

今が、開戦すべき時なのか否か、決断を下せずに、王様は悩んでいました。

どうしても、自分では決断を下すことが出来ない王様は、部下たちに、国中より 占い師 を3日以内に探してくるように命令しました。

3日後、部下たちが探してきた占い師は2名。

一人は的中率70%と言われる占い師で、もう一人は的中率15%しかない占い師でした。

王様は 満面の笑み を浮かべて喜び、的中率15%の占い師を迎え入れました。

「どうして的中率が15%しかない占い師を王様は喜んで雇ったのか‥‥」 と、不安がる部下たちをよそに、王様は、「今は戦(いくさ)をすべきではない!」 と言い張る占い師の意見を無視して、攻め入って勝利して、隣国を滅ぼす大勝利を獲得したのでした。

もう、お解りと思いますが、15%の占い師の言うことの逆を行えば、85%の高確率 で成功することが出来るのだから、何とも頼もしい占い師なのです。

 

 

 

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心に残る大河ドラマ「炎立つ」第二部

2016年の大河ドラマ真田丸」が明日より放送される予定で今から楽しみです。

過去の大河ドラマを思い出してみても、2008年の 篤姫 など、ドラマも音楽も素晴らしい作品が、いくつも浮かんできますが、その中で、強いて私の一番を挙げるならば‥‥。

日本の歴史の中でも決してメジャーとは言い難い、奥州藤原氏 を扱った 炎立つ(ほむらたつ)」 を挙げたいと思います。

一月からスタートして年末に終わる大河ドラマの中で、1993年7月からスタートして1994年3月する変わった放送日程で、期間も9ヶ月と少し短いだった異色の大河ドラマ

しかも、更に第1部から第3部に、異なる時代の物語りから構成されているため、各部の主役と主演の俳優も異なる独立した物語でした。

私の中で、村上弘明さんが主演された、初代奥州藤原氏 藤原清衡 の生涯の物語の第二部が、特に深く印象に残っています。

後三年の役を扱った物語で、とても面白かったです。

今年(2016年)の大河ドラマは、私の中で、とても興味のある家の一つ 真田家 を取り上げた物語なので、とても楽しみにしています。
 

 

 

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