自分の思いも言わずに世の中を憂いてはダメ!

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綿密に計画された作戦を実行して勝利した桶狭間の戦い

私の子供時代には迂回して少数の兵で背後から急襲して今川義元の首をとって織田信長が勝利したとされた桶狭間の戦いも、最近では正面攻撃を行い勝利したとの説が有力になってきましたが、織田信長は(本人も驚くような偶然の)幸運で勝利できた戦いであったように依然として評されていることが多いです。

しかし、私は、そのようには思いません。

歴史学者でもなく、何かの(歴史的な)証拠をもっての主張ではありませんが、後に天下統一の目前まで行きついた織田信長ほどの男が、本人さえもが驚くような幸運が転がり込んで勝利できたに過ぎないとは私には思えません。

(大名ではなく)守護代に仕える3人の有力家臣の一人であった父親の死後、守護代であった織田本家や実の弟との争い(内戦)を経て、織田信長尾張の国の約半分の支配を達成できたのは、彼が26歳の時、桶狭間の戦いの前年の1559年でした。

織田信長尾張の国の西半分を支配下に置いた翌年の1560年、既に駿河遠江三河の三国に加え、尾張の東部も支配下に収めていた戦国大名今川義元が2万人とも4万5千人とも言われる大兵力で尾張に攻め込んできました。

以前は今川義元が目指していたのは京で、その通り道に当たる織田信長のいる尾張をまずは蹂躙しようと攻めてきたと言われていましたが、最近の研究では、今川義元が京を目指していた痕跡は見つからず、大軍を擁して尾張を征服することが狙いだったという説が一般的になりました。

織田軍が動員可能だった兵力は最大でも5000人ほどだったと言われ、兵士の数の上では圧倒的に不利な状況にあったことは間違いありません。

相模の大大名の北条氏、甲斐の大大名の武田氏と同盟を結び、背後に心配がなくなった今川義元が狙ってくるのが織田信長が支配していた尾張だったことを織田信長は当然、解かっていた筈です。

大軍を擁して攻めてくるであろう今川義元に対して、織田信長は、いかに劣勢の兵力で戦い勝利するかを綿密に何通りものパターンを想定して、作戦をたてていたと思われます。

以前の有力だった、半ば破れかぶれで、少数の兵力で山道を進んでいった所、眼下に今川義元の軍を発見して急襲したことろ(偶然にも)今川義元の首をあげることに成功したのでもなければ、現在は有力となっている今川軍に正面攻撃を仕掛けたところ、偶然にも今川義元の本隊が近くにいて勝利できたのでもなく、言われているような 偶然に ‥‥ というような幸運的な要素 は、なかったと私は思います。

松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊と本隊が離れていたために、今川義元の本隊の兵力は6000名程度で、織田信長が率いて攻撃した3000名ほどの兵力と、兵力的な開きは、それほどなかったと言われていますが、ここが綿密に検討を重ねた上での、最大のポイント だったのだと思います。

予め、想定しておいた今川軍の本隊が前衛部隊との距離が離れて織田軍との兵力差が最も縮じまり、劣勢の度合が少なくなる 時間と場所が合致するポイント を狙って攻撃を仕掛けたと思われます。

それでも、数字上の強さは劣勢な織田信長が、絶対的な勝利の自信などはなかったとは思いますが、勝利できる可能性の最も高いであろうポイントに全てを賭けたのでしょう。


結果は、見事に今川義元の首を取り、総大将を失った今川軍は撤退を始め、更に奥地に攻め込んでいた大兵力を擁していた松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊が撤退してくる際にも、(ある意味で)素通りさせることで、自軍の損害を最小限に留める大勝利を収めることに成功しました。

引き揚げてくる松平元康(後の徳川家康)とは交戦しない(交戦すれば劣勢な織田軍は壊滅してしまう危険があった)ことも計算の範囲内だったのでしょう。

丁寧に綿密に様々なパターンを想定して、その対策を準備していたとしても、全てが計画通りに運んで成功することなどは、寧ろ稀で、その意味では、桶狭間の戦いでの勝利は、幸運だった と言えますが、広く言われているような、織田信長が、全くの無策に近い形で戦いを挑んで幸運にも処理したのではないだろうと私は思っています。

余談ですが、2017年の大河ドラマおんな城主 直虎」の主役の柴咲コウさんが演じる直虎の父親杉本哲太さんが演じる井伊直盛も3月5日に放送される「桶狭間の戦い」で今川方として参戦して戦死しています。
 
 
 
 
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