自分の思いも言わずに世の中を憂いてはダメ!

微力ながら少しでも世の中を良くしたいので、思いを発信していきたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

正義を貫いた男たちの銅像に彼の姿だけがありません

自分が勝ち取った栄光を犠牲にすることで、人種差別を世の中に訴えなければならなった時代の話です。

しかも、まだ、50年も経っていない1968年に起きた実話ですから、哀しい驚き が隠せません。

当時のアメリカ合衆国では、飲食店やバスなど、公共の場で白人と黒人の居場所が隔てられるというような差別が公然と行われる社会でした。

こうした差別に反対する運動が 公民権運動 と呼ばれ、全米で盛んに行われ、人種差別に抗議していました。

こうした中で、1968年4月に黒人の指導者のキング牧師が暗殺され、アメリカ合衆国内の人種差別に対する抗議運動は、より一層と激しさを増していきました。

同じ年(1968年)の10月に行われるメキシコオリンピックに対し、陸上競技で世界屈指の実力を備えたアメリカ合衆国の黒人選手たちは、苦慮していました。

国内の人種差別に抗議して、オリンピックへの参加をボイコットするかどうかを悩んでいたのです。

そのような状況下で、トミー・スミスとジョン・カーロスという2人の黒人選手は、ある思いを抱いてオリンピックへの陸上男子200m走に出場する決断をしたのです。

2人は、オリンピックで表彰台に乗ることが出来たならば、その表彰式の際に、世界に黒人差別を訴えるつもりでいたのでした。

結果は、見事。トミー・スミスは優勝し、ジョン・カーロスも3位に入り、2人揃って表彰台に上がれることになりました。

星条旗が掲げられ、アメリカ合衆国の国歌が流れる表彰台の上で、2人は、首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げました。

これはブラックパワー・サリュート(アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為)と呼ばれるものです。

しかし、近代オリンピックにおいて、選手の政治行為は厳重に禁止されており、このようなことをすれば、オリンピックから永久追放され、陸上選手としての選手生命を絶たれてしまうことを意味していましました。

そのことを十分に理解していた2人は、覚悟の上で、敢えてオリンピックに出場し、見事に表彰台に上がる権利を獲得したのでした。

この2人の表彰式での行為は、当時のオリンピック委員会の逆鱗に触れ、直ちに2人は選手村を追放され、閉会式に出ることすら許されず、強制帰国させられました。

選手生命を絶たれてしまった2人は、職場を解雇される、家族は様々な脅迫を受け、ジョン・カーロスの妻は自殺に追い込まれるといった、様々な苦難に見舞われることになります。

しかし、同時に、2人が世界に示した勇気に裏付けされた訴えに賛同する人たちに支えられ、差別に屈せずに闘った人間だということも世の中に知れ渡りました。

その後、時は流れ、既に。2人の名誉も完全に回復されていた2005年には、二人の 勇気と信念 を讃えて、カリフォルニア州にある2人の母校のサンノゼ州立大学には、2人の銅像が作られました。


この表彰台の銅像には、拳を掲げた2人の銅像はありますが、2位選手の銅像はありません。

1968年のメキシコオリンピックの陸上男子200m走で2位に入った選手は、オーストラリア人の ピーター・ノーマン でした。

黒人選手たちの上位独占だろうと予想されていた中で、オーストラリア代表のピーター・ノーマンは、予選でオリンピック新記録を出すなどの素晴らしい走りを見せ、決勝でも、トミー・スミスとジョン・カーロスの間を割った2位となり銀メダルを獲得しました。

決勝前日の練習の時に初めて会って会話した時から、(白人の)ピーター・ノーマンは、2人の黒人選手と打ち解けていたとはいえ、決意を持って表彰式へ臨もうとしていた2人に対して

「僕は何をしたら良い?」

と、話を持ち掛けたと言われています。

「これは、僕たち黒人の問題だから、(白人)の君は、何も関わらなくて良い。その気持ちだけで、十分だから、ありがとう。」

と、丁重に、ピーター・ノーマンの申し出を2人は断ったと言われています。

「ここで、見て、見ぬフリをして、やり過ごしたのならば、僕も何らアメリカ合衆国の白人たちと変わらない。これは、人間として、私が、どう向き合うのかという私の問題だ ‥‥ 」

と言って、彼は2人が胸につける 人権を求めるオリンピック・プロジェクト(略称:OPHR) を自分も胸につけて表彰式に臨みました。


これが、その時の写真です。


ピーター・ノーマンが、このバッチを胸につけて表彰台に上がったことが、その後、彼をの悲劇のどん底へ突き落すこととなるのでした。

オーストリア人のオリンピックの陸上競技での、数少ない偉業にも関わらず、当時の 白人至上主義 が大勢を占めていたオーストラリアでは、ピーター・ノーマンの行為は、社会への裏切りに等しい行為だと捉えられ、数々のバッシングに遭ながらも、4年後のミュンヘンオリンピックまでに、オリンピック派遣標準記録を13回も突破して、世界の中の一流の陸上選手であり続けることで、彼は逆境に立ち向かっていっていました。

しかし、ミュンヘンオリンピックの直前、オーストラリアのオリンピック委員会は陸上200mに選手を派遣しないことを決め、ピーター・ノーマンは、完全に陸上選手としての抹殺されたのです。

オーストラリア国内にも、ピーター・ノーマンの名を知る人も殆どいなくなってしまい、その意味では、黒人差別と闘った英雄として、世界に名前が知れ渡っていたトミー・スミスとジョン・カーロスとは異なり、母国のオーストラリア国内でも、その功績が抹殺され、記憶の外に放り出されてしまったピーター・ノーマンに降り注がれてしまった悲劇の方が、より大きかったとも言われています。

西暦2000年には、オーストラリアのシドニーでオリンピックが開催されましたが、その時にも、まだ、ピーター・ノーマンの名誉は全く回復されず、開会式など、オリンピックの会場に招かねることもなければ、名前が紹介されることすらありませんでした。

メキシコオリンピックの表彰台以降、ピーター・ノーマン自身も、離婚や生活苦、体調不良に苦しみながらも、自分は信念を貫き通すことが出来て、そのことを母さんも、アメリカ合衆国にいるトミーとジョンも解ってくれている と語り、オリンピックの表彰台に一緒に上がった2人との友情は生涯に渡って続いていました。


メキシコオリンピックの時の3人の写真です。


3人の友情は永遠に続きました。

先ほど、紹介した2005年のカリフォルニア州サンノゼ州立大学の銅像の除幕式には、ピーター・ノーマンも招かれて、出席しています。

この銅像に、ピーター・ノーマンの像が無いのは、彼自身の願い からだったそうです。

ここを訪れた人が、彼が立った(銀メダリストの表彰台)の場所に立ち、それぞれの自分の思いを感じて欲しい と、ピーター・ノーマン願ったため、銅像にはピーター・ノーマンの姿はないのです。

ピーター・ノーマンの銀メダル獲得とその後の苦難を、ずっと見てきていた甥のマットは、大人になり映像作家となっていました。

彼は、ピーター・ノーマンの偉業を映画化するために、動き出していましたが、彼に出資するスポンサーは見つからず、自費で少しずつ映画の製作を進めていました。

そのような中での2006年、映画の完成を見ないまま、ピーター・ノーマンは、突然の心臓発作で、この世を去ってしまいました。

とても少ない参列者しかいない彼の葬儀に、アメリカ合衆国から、トミー・スミスとジョン・カーロスの2人が駆けつけて、彼の棺を運びました。


そして、その2年後、ようやく映画が完成し、最初は僅か15の映画館での公開でしたが、その後の評判が広がり、上映映画館は増え続け、最終的には、国外の6ヵ国でも上演され、その結果、オーストラリア国内でも、ピーター・ノーマンの名前を知る人が増えていったそうです。

更に、その4年後には、オーストラリア議会が、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択し、彼がオーストラリア国内で受けた不当な扱いと表彰台で行った行を評価しなかったことに対して謝罪し、現在、シドニーの小学校では、授業でピーター・ノーマンの偉業の記録の映画を児童たちに見せているそうです。

私自身、このような崇高な志を貫いた ピーター・ノーマン という人の偉業を知らず、2017年1月26日にフジテレビ系列のテレビ番組「アンビリバボー」で、彼の偉業が紹介されていたのを観て、初めて知り、急ぎ、資料などを集め、このBLOGを作成しました。

どのような苦境が待ち受けようとも、正義を貫くことの素晴らしさ、そして、死後となってしまいましたが、正義に基づいた信念は、必ず、世の中に認められる時が来るのだということを教えてもらいました。 
 
 


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