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オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)

1699年のカルロヴィッツ条約で領土を初めて失った失ったオスマン=トルコ帝国は、その後200年以上に渡って、領土が縮小して衰退をしていきます。


上の赤色の部分が、現在のトルコ共和国の領土で、バルカン半島黒海周辺、アラビア半島アルジェリアからエジプトに至る北アフリカ、地中海の島々を領有していたオスマン=トルコ帝国は、現在の領土はイスタンブール周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)のみとなってしまっています。

バルカン半島では、オーストリア=ハンガリー帝国(旧神聖ローマ帝国)やローマ帝国の支援を受け、様々な国がトルコからの独立を果たし、第一次世界大戦が開始された1914年までに、セルビアモンテネグロブルガリアギリシアがトルコから独立して国家を成立させています。


バルカン半島の国境線の変遷です。

ロシア帝国からは、断続的に戦争を仕掛けられ、1700年以前を除いても、露土戦争 と呼ばれる戦争が第一次世界大戦までに、8回も行われ、トルコ側の2勝5敗1分 とその殆どで負け、オスマン=トルコ帝国の領土がロシア帝国に奪われていきました。

参考までに、それぞれの露土戦争を記しておきます。

1710年〜1711年の露土戦争 トルコの勝利

1735年〜1739年の露土戦争 勝敗は引き分け

1768年〜1774年の露土戦争 ロシアの勝利

1787年〜1791年の露土戦争 ロシアの勝利

1806年〜1812年露土戦争 ロシアの勝利

1828年1829年露土戦争 ロシアの勝利

1853年〜1856年の露土戦争 クリミア戦争と呼ばれ、トルコ側に英仏が参戦したことによりトルコの勝利

1877年〜1878年露土戦争 ロシアの勝利

何回も行われた露土戦争により、オスマン=トルコ帝国の内海で勢力圏だった 黒海 が、黒海沿岸がロシア帝国の領土となっていき、ロシアの勢力圏へと変わっていきました。

そして、この露土戦争の延長上に、ロシアに支援されたバルカン諸国とトルコの戦争の 第一次バルカン戦争(1912年〜1913年) ロシア帝国オスマン=トルコ帝国が直接に戦火を交えた 第一次世界大戦(1914年〜1918年) へと続いていきます。

北アフリカでも、アルジェリア1830年にフランス、エジプトが1882年にグレートブリテン北アイルランド連合王国(通称イギリス)の実質的な支配下となり、オスマン=トルコ帝国の勢力圏が縮小していきます。

こうして、ヨーロッパ列強から 瀕死の病人 とまで呼ばれるようになってしまったオスマン=トルコ帝国は、次々と領土や勢力圏が削られていき、外交上の関係も対等ではなくなっていきます。

トルコの勢力下であったエジプトでムハンマド・アリー宗主国であるオスマン=トルコ帝国に対して、1831年1833年と1839年〜1840年の2回に渡り、エジプト・トルコ戦争を起こした中で、1838年に通称イギリスが トルコ=イギリス通商条約 を結びました。

通称イギリス側には長期的なトルコを食いモノにしていく狙いが、トルコ側の短期的に反乱を起こすエジプトの力を削ぐ狙いがあり、結ばれた条約ですが、これは 不平等条約 です。

これは、もはや軍事力が上回っていたオスマン=トルコ帝国が、フランスを皮切りにヨーロッパ諸国に16世紀に与えた恩恵的特権であった カピチュレーション とは異なり、関税自主権も喪失した、まぎれもない 不平等条約 に他なりません。

勢力を拡大し、オスマン=トルコ帝国をも滅ぼすかもしれない勢いとなったムハンマド・アリーのエジプトは、トルコ領だったため、トルコ=イギリス通商条約の適用を受け、関税自主権を失い、通称イギリスにより 経済的な大打撃 を受け、力を削がれました。

この事が、短期的にはオスマン=トルコ帝国にとってもプラスになりましたが、結局は1882年には、エジプトは通称イギリスの実質的な支配下となってしまうばかりか、トルコ全土に適用される 不平等条約 により、経済的な大打撃を受け、保護関税を設けれなくなったトルコの綿工業などが壊滅してしまいました。

この1838年の不平等条約は、アヘン戦争敗戦後に清(中国)が1842年に結んだ不平等条約南京条約に先立つ、最初の不平等条約と言われるもので、開国させられた日本が1858年以降に欧米列強と結ばされた不平等条約へと続いていくものです。

加えてクリミア戦争(1853年〜1856年)で通称イギリスとフランスが実際に兵を動員して、ロシアと戦いトルコを助けたことにより、膨大な援助に費やされた戦費などを理由に、戦後、トルコは、英仏の経済的な影響力下に置かれてしまうことになります。

20世紀に入り、トルコを長年苦しめ続けていたロシア帝国が極東のアジア人の日本に日露戦争(1904年〜1905年)に敗れる事件に接し、多くのトルコ人を精神的に勇気づけましたが、各国のトルコへの侵食は続けられ、北アフリカに残っていたオスマン=トルコ帝国の唯一の勢力圏にあったリビアの支配を狙ったイタリアが武力攻撃を加えてきました。(1912年〜1913年の伊土戦争)

このイタリアの侵略に対して、武装面では劣勢だった ムスタファ・ケマル・アタテュルクケマル・パシャの奮戦もあり、イタリアの侵攻を防いで一進一退の状況に持ち込むことに成功しましたが、この国家存亡の危機に乗じて、セルビアモンテネグロギリシャブルガリアによるバルカン同盟諸国が、ロシアの援助に支えられてオスマン=トルコ帝国に宣戦布告した 第一次バルカン戦争(1912年〜1913年)も勃発し、首都のイスタンブールを脅かされる事態に直面し、リビアをイタリアへ割譲する講和を結ばざるを得なくなりました。

バルカン諸国に攻められ、遂には首都のイスタンブールも陥落の危険が迫り、講和を結びましたが、次に戦争が行われてバルコン諸国に攻められたならば、もう後のない国家滅亡 の状況にまで追い込まれ、残ったオスマン=トルコ帝国の領土は周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)、アラブ地域のみとなりました。

風前の灯だったオスマン=トルコ帝国に第一次世界大戦の直前に 奇跡 と呼ぶには、あまりにも小さな幸運が起こりました。

第一次バルカン戦争の戦勝国間の獲得領土を巡り意見の対立が発生し、ブルガリアに対して、その他の全ての戦勝国セルビアモンテネグロギリシャが戦争状態になりました。(第二次バルカン戦争:1913年)

この戦争にオスマン=トルコ帝国もブルガリアに第一次バルカン戦争で奪われた領土の回復を目指して参戦して、エデルネと東トラキアの一部を回復しましたが、帝国滅亡の危機に直面していることにことには変わりありませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
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