自分の思いも言わずに世の中を憂いてはダメ!

微力ながら少しでも世の中を良くしたいので、思いを発信していきたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

学校のテストで不必要に年を問うから本来は全く無用な年号の語呂合わせなどが重宝されてしまう

何のために歴史を学ぶのかと言えば、過去の教訓から少しでも現在と未来を良くするためです。

この意見に反論のある方もいらっしゃるかもしれませんが、私の中では、揺ぎない思いなので、どうか違和感を感じられた方は、ご容赦下さい。

関ヶ原の合戦が行われたのは1600年ですが、学校のテストで1599年や1601年と回答すると不正解になりますが、歴史を本質を学ぶにあたり、この一年の認識のずれが、さして大きな問題になるとは思われません。

関ヶ原の合戦は (   )年に起こりました。

というような、テストを出題することがナンセンスです。

豊臣秀吉が死んだ年は1598年ですが、秀吉を中心にまとまっていた大名たちが、彼が死んだことにより争いとなり1600年に関ヶ原の合戦が起こった訳で、秀吉の死と関ヶ原の合戦が起きた順番を正しく認識していることの方が、よほど大切なことだと言えます。

歴史上の出来事が発生した年を 年単位で覚えさせよう とすることが、愚かです。

刻々と動いた歴史の瞬間では、逆に、同じ年に起きた出来事を順番など度外視して 一括りに年だけを暗記 させても全くのナンセンスです。

一つの例として、時代が大きく動いた幕末の最後を下に紹介しますが、新暦で複数年にまたがりますが、目まぐるしく時代が動くので、年単位では追いつかず、月単位、いや日単位で推移を追っていく必要のあるケースも存在します。


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 大政奉還徳川幕府の終わり)   1867年11月9日

 王政復古の大号令天皇制の開始) 1868年1月3日

 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開始) 1868年1月27日〜

 勝海舟西郷隆盛江戸開城交渉  1868年3月13日〜

 官軍の江戸城の無血入城による勝利 1868年4月4日〜

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調べればすぐに判る細かい年月日まで覚えることが必要なのではなく、細かい出来事は別として大筋では、全国の大名たちを従える力を失った徳川将軍家が次に天皇の名の下で行われるであろう諸侯会議の議長となることを狙って政権を朝廷(天皇家)へ返還したことが 大政奉還 で、徳川慶喜の官位と徳川家の領土を朝廷に返上するよう求めたのが 王政復古の大号令 とそれに続く小御所会議での決定、その決定に不服だった(主に)旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が戦ったのが 鳥羽伏見の戦い で、江戸へ進軍してきた薩摩・長州中心の官軍と江戸城に籠城して戦うことも辞さないとする旧幕府軍が戦って江戸の街が崩壊してしまうことを防ごうと話し合いをしたのが 勝海舟西郷隆盛の交渉 で、その結果、江戸城が無血入城 されたという一連の流れを理解し、その歴史から何か学べることが学ぶことが重要なのです。

歴史から何かを学ぼうともせず、出来事が起こった年の丸暗記能力を問うようなテスト問題など、無意味極まりないものです。

年号語呂合わせ などというものなど、本来は、全く必要のないものです。(私は、学生時代から、年号語呂合わせで覚えるような方法をしたこともありません)

「いい国つくろう鎌倉幕府」 1192年

私が学生だった昔に使われていた、1192年に鎌倉幕府が成立したということを丸暗記するための 語呂合わせ なのでしょうが、これなどは、いかに、こうした語呂合わせが無意味なのかを示す典型的な例です。

古くから源頼朝征夷大将軍となった1192年が鎌倉幕府成立の年と言われてきましたが、最近では幕府機構の成立は、それよりも早かったとする説が最近、唱えられるようになってきました

頼朝が挙兵をして一度は敗れた後、その年の年末には盛り返して周辺の御家人を従えて鎌倉に自分の御所を建てた1180年が鎌倉幕府成立する年だとする説、頼朝の支配地への守護・地頭の設置・任免を許可した1185年だとする説、その他1182年説、1190年説など、数多くの説があるようです。

壇ノ浦の戦いで敗れて平氏一門が滅んだ1185年以降ならば解りますが、たった一代で平氏の栄華を極め、自身も太政大臣にまで登り詰めた平清盛が死亡しのが1181年よりも前に鎌倉幕府が成立していたという説は個人的には、いかがなものかとも思いますが、歴史研究が進めば出来事が起きた年の見解が変わることもあるのですから、いい国つくろう鎌倉幕府 などという語呂合わせが全く無意味だということが解ります。


私が学生の時に教科書に載っていた源頼朝肖像画ですが、こちらも多くの方がご存知のように最近では、この肖像画源頼朝ではなく、鎌倉幕府の次の時代に当たる室町幕府を建てた足利尊氏の弟の足利直義肖像画だという説が有力になってきました。

歌舞伎の勧進帳でも有名な弟の源義経に酷い仕打ちをした源頼朝です。

頼朝に追われ、平泉の奥州藤原氏へ逃げた義経に対して、頼朝は「義経を引き渡さなければ攻め込む」と執拗に脅し、遂に屈服して義経を討って、その首を届けた奥州藤原氏4代目の泰衡に対して「引き渡すように要求しただけで、何で弟を殺害したのだ!」と因縁をつけて、結局は大軍勢で攻めて平泉を滅ぼしてしまう性格の悪さを、源頼朝は歴史的な事実として存分に示します。

三白眼のいかにも陰険で性格の悪そうな雰囲気を醸し出している肖像画だったために、長い年月、源頼朝だと信じられていたのではないだろうかと私は思っています。

せっかくでも歴史的な出来事の起きた年を覚えた(または調べた)のならば、世界の他の場所で、同じ時期に、どのようなことが起こっていたのかを見渡してみることも良いかと思います。

ちなみに、さきほど鎌倉幕府の成立が何年かという諸説(1180年〜1192年まで多岐にわたる)と同じ頃の出来事を調べてみると、エジプトのアイユーブ朝の始祖サラディンが1187年に征服してキリスト教徒からエルサレムを奪います。

それによりローマ教皇グレゴリオ8世の呼びかけで1189年より第3回十字軍が行われますが、同年に即位したイングランドプランタジネット朝の王のリチャード1世も参加しています。


この第3回十字軍はサラディンリチャード1世が休戦協定を結び1192年に集結するのですが、日本の鎌倉幕府の成立の時期と同じ頃に、中東ではキリスト教徒とイスラム教徒が戦争をしていました。

現代も続いているキリスト教イスラム教の対立、更にそれにユダヤ教が絡み合う複雑な対立の原点とも言うべき十字軍(1096年に始まった第1回から1272年に終わった第9回まで)が行われていました。


 
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