オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)
1699年のカルロヴィッツ条約で領土を初めて失った失ったオスマン=トルコ帝国は、その後200年以上に渡って、領土が縮小して衰退をしていきます。
上の赤色の部分が、現在のトルコ共和国の領土で、バルカン半島、黒海周辺、アラビア半島、アルジェリアからエジプトに至る北アフリカ、地中海の島々を領有していたオスマン=トルコ帝国は、現在の領土はイスタンブール周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)のみとなってしまっています。
バルカン半島では、オーストリア=ハンガリー帝国(旧神聖ローマ帝国)やローマ帝国の支援を受け、様々な国がトルコからの独立を果たし、第一次世界大戦が開始された1914年までに、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアがトルコから独立して国家を成立させています。
バルカン半島の国境線の変遷です。
ロシア帝国からは、断続的に戦争を仕掛けられ、1700年以前を除いても、露土戦争 と呼ばれる戦争が第一次世界大戦までに、8回も行われ、トルコ側の2勝5敗1分 とその殆どで負け、オスマン=トルコ帝国の領土がロシア帝国に奪われていきました。
参考までに、それぞれの露土戦争を記しておきます。
1710年〜1711年の露土戦争 トルコの勝利
1735年〜1739年の露土戦争 勝敗は引き分け
1768年〜1774年の露土戦争 ロシアの勝利
1787年〜1791年の露土戦争 ロシアの勝利
1806年〜1812年の露土戦争 ロシアの勝利
1828年〜1829年の露土戦争 ロシアの勝利
1853年〜1856年の露土戦争 クリミア戦争と呼ばれ、トルコ側に英仏が参戦したことによりトルコの勝利
1877年〜1878年の露土戦争 ロシアの勝利
何回も行われた露土戦争により、オスマン=トルコ帝国の内海で勢力圏だった 黒海 が、黒海沿岸がロシア帝国の領土となっていき、ロシアの勢力圏へと変わっていきました。
そして、この露土戦争の延長上に、ロシアに支援されたバルカン諸国とトルコの戦争の 第一次バルカン戦争(1912年〜1913年) 、ロシア帝国とオスマン=トルコ帝国が直接に戦火を交えた 第一次世界大戦(1914年〜1918年) へと続いていきます。
北アフリカでも、アルジェリアが1830年にフランス、エジプトが1882年にグレートブリテン・北アイルランド連合王国(通称イギリス)の実質的な支配下となり、オスマン=トルコ帝国の勢力圏が縮小していきます。
こうして、ヨーロッパ列強から 瀕死の病人 とまで呼ばれるようになってしまったオスマン=トルコ帝国は、次々と領土や勢力圏が削られていき、外交上の関係も対等ではなくなっていきます。
トルコの勢力下であったエジプトでムハンマド・アリーが宗主国であるオスマン=トルコ帝国に対して、1831年〜1833年と1839年〜1840年の2回に渡り、エジプト・トルコ戦争を起こした中で、1838年に通称イギリスが トルコ=イギリス通商条約 を結びました。
通称イギリス側には長期的なトルコを食いモノにしていく狙いが、トルコ側の短期的に反乱を起こすエジプトの力を削ぐ狙いがあり、結ばれた条約ですが、これは 不平等条約 です。
これは、もはや軍事力が上回っていたオスマン=トルコ帝国が、フランスを皮切りにヨーロッパ諸国に16世紀に与えた恩恵的特権であった カピチュレーション とは異なり、関税自主権も喪失した、まぎれもない 不平等条約 に他なりません。
勢力を拡大し、オスマン=トルコ帝国をも滅ぼすかもしれない勢いとなったムハンマド・アリーのエジプトは、トルコ領だったため、トルコ=イギリス通商条約の適用を受け、関税自主権を失い、通称イギリスにより 経済的な大打撃 を受け、力を削がれました。
この事が、短期的にはオスマン=トルコ帝国にとってもプラスになりましたが、結局は1882年には、エジプトは通称イギリスの実質的な支配下となってしまうばかりか、トルコ全土に適用される 不平等条約 により、経済的な大打撃を受け、保護関税を設けれなくなったトルコの綿工業などが壊滅してしまいました。
この1838年の不平等条約は、アヘン戦争敗戦後に清(中国)が1842年に結んだ不平等条約の南京条約に先立つ、最初の不平等条約と言われるもので、開国させられた日本が1858年以降に欧米列強と結ばされた不平等条約へと続いていくものです。
加えてクリミア戦争(1853年〜1856年)で通称イギリスとフランスが実際に兵を動員して、ロシアと戦いトルコを助けたことにより、膨大な援助に費やされた戦費などを理由に、戦後、トルコは、英仏の経済的な影響力下に置かれてしまうことになります。
20世紀に入り、トルコを長年苦しめ続けていたロシア帝国が極東のアジア人の日本に日露戦争(1904年〜1905年)に敗れる事件に接し、多くのトルコ人を精神的に勇気づけましたが、各国のトルコへの侵食は続けられ、北アフリカに残っていたオスマン=トルコ帝国の唯一の勢力圏にあったリビアの支配を狙ったイタリアが武力攻撃を加えてきました。(1912年〜1913年の伊土戦争)
このイタリアの侵略に対して、武装面では劣勢だった ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ) の奮戦もあり、イタリアの侵攻を防いで一進一退の状況に持ち込むことに成功しましたが、この国家存亡の危機に乗じて、セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアによるバルカン同盟諸国が、ロシアの援助に支えられてオスマン=トルコ帝国に宣戦布告した 第一次バルカン戦争(1912年〜1913年)も勃発し、首都のイスタンブールを脅かされる事態に直面し、リビアをイタリアへ割譲する講和を結ばざるを得なくなりました。
バルカン諸国に攻められ、遂には首都のイスタンブールも陥落の危険が迫り、講和を結びましたが、次に戦争が行われてバルコン諸国に攻められたならば、もう後のない国家滅亡 の状況にまで追い込まれ、残ったオスマン=トルコ帝国の領土は周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)、アラブ地域のみとなりました。
風前の灯だったオスマン=トルコ帝国に第一次世界大戦の直前に 奇跡 と呼ぶには、あまりにも小さな幸運が起こりました。
第一次バルカン戦争の戦勝国間の獲得領土を巡り意見の対立が発生し、ブルガリアに対して、その他の全ての戦勝国のセルビア、モンテネグロ、ギリシャが戦争状態になりました。(第二次バルカン戦争:1913年)
この戦争にオスマン=トルコ帝国もブルガリアに第一次バルカン戦争で奪われた領土の回復を目指して参戦して、エデルネと東トラキアの一部を回復しましたが、帝国滅亡の危機に直面していることにことには変わりありませんでした。
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BLOG記事タイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした
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BLOGタイトル オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)
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オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)
1543年に千年以上も続いたキリスト教の東ローマ帝国を滅ぼし、1517年にはエジプトにあった同じイスラム教のマムルーク朝を滅ぼしてカリフを廃位させ、更に勢力を拡大させていきました。
1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を奪いました。
その後の1571年のレパントの海戦では、逆にプレヴェザの海戦と同じスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊と戦い、参戦した285隻中の82%以上の235隻を失う大敗を喫しますが、敗戦から僅か半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年にチュニスを占領し、翌17世紀にはクレタ島への征服を断続的に行い、その領有も確定させ、地中海の大半を掌握しました。
また、ヨーロッパ(バルカン半島)方面に対しても、1521年はにベオグラードを征服、1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、1529年には2ヶ月近くも神聖ローマ帝国(ドイツの帝国)の首都のウィーンを包囲しました。(第一次ウィーン包囲)
第一次ウィーン包囲(1529年)、プレヴェザの海戦(1538年)の時のオスマン=トルコ帝国の皇帝が、帝国の最強時代を築いたと言われるスレイマン1世(在位:1520年〜1566年)です。
特に第一次ウィーン包囲は、単に軍勢を率いて神聖ローマ(ドイツ)帝国の首都を包囲したというものではありません。
当時のブルク家出身の神聖ローマ皇帝の皇帝のカール5世(在位:1519年〜1556年)は、スペイン国王のカルロス1世(在位:1516年〜1556年)を兼ねていました。
カール5世のヨーロッパの領土です。
1492年のコロンブスの大西洋航路発見を支援したスペインは、その後もアメリカ大陸への植民地化を進め、カルロス1世(カール5世)の時代には、中南米を中心に広大な植民地を持ち、彼の息子のフェリペ2世の時代には、フィリピンからアメリカ大陸までに至る 日の沈まない帝国 を打ちたてました。
フェリペ2世の世界帝国(植民地)です。(スペインの植民地となったフィリピンの名前は、フェリペ2世の名前に由来しています)
オスマン=トルコ帝国のスレイマン1世は、当時、世界最強の神聖ローマ帝国の皇帝とスペイン王を兼ねていたハプスブルク帝国の首都のウィーンを攻撃して、2ヶ月近くも街を包囲していました。
オスマン=トルコ帝国は、その後も領土を拡大し続けて、1683年には、帝国の領土が最大になります。
しかし、1683年に強引に大軍を率いて、2ヶ月近くもウィーン包囲(第二次ウィーン包囲)を強行した結果、その後、神聖ローマ帝国との16年に及ぶ戦争が続き、トルコは1699年にロシアを除くヨーロッパ諸国とカルロヴィッツ条約を、1700年にロシアとコンスタンティノープル条約を結び、ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラボニアを神聖ローマ帝国内のオーストリアに、ダルマチアをヴェネツィアに、ポドリアをポーランドに、アゾフをロシアに割譲することが決まり、拡大していった領土が小さくなりました。
これを境に、オスマン=トルコ帝国は、衰退へと向かっていきます。
今回の前編ではオスマン=トルコ帝国の勢力が拡大していく過程を記しましたが、その中で特筆すべき事が起きています。
それは、当時の世界最強のハプスブルク家のカール5世のウィーンを包囲して追い詰めた皇帝スレイマン1世の治世に、ハプスブルク家の領土のスペインとドイツに挟まれたフランソワ1世が治めるフランス王国と共通の敵に対抗するために秘密同盟を結んでいますが、その同盟関係の中において、スレイマン1世が1536年(別説では、スレイマンの死後の1539年)に、フランス人に対して、トルコ領内での恩恵的待遇という意味の カピチュレーション を付与しています。
このカピチュレーションとは、トルコ領内に在住するフランス人に対し、通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全などを保障し、治外法権 までも認めたものです。
これらの権利は、逆にフランス領内に在住するトルコ人に認められたものではなく、トルコがフランスに与えた一方的な特権で、不平等性 を有するものですが、アヘン戦争に負けた清(中国)や黒船に脅された日本が結ばされた 不平等条約の中の 治外法権 と、中身の内容的には、ほぼ同じですが、特権を認めた経緯 は大きく異なります。
16世紀当時のオスマン=トルコ帝国とフランス王国には、歴然とした力の差があり、オスマン=トルコ帝国の方が圧倒的に強国 でした。
まさしく 恩恵的待遇という意味 で、強者が弱者に対して、特権を与えたのです。
圧倒的な力の差がある場合に、強者は、その弱みにつけこむことを恥とする日本人の伝統的な文化と、何かの共通した部分を感じます。
1699年を境に、オスマン=トルコ帝国の力が衰退していき、元来は 恩恵的な意味で与えた特権が、不平等条約としての意味合いに変わっていく過程は、後編で記していきたいと思います。
オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)
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BLOG記事タイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です
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BLOG記事タイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした
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西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした
歴史学の本質と全く異なる語呂合わせまで使って出来事が起きた年を丸暗記することほどナンセンスなことはないという自論を持っているので、1517年という年を暗記などする必要は全くありませんが、西欧キリスト教世界と西アジアのイスラム教世界の双方にとっても転換点となる出来事が起きた年です。
未だに日本を含めて世界的に欧米中心の歴史観に世の中が支配されていて勘違いしてしまいそうですが、西洋が歴史において常に世界を文化的、実力的に進んでいた訳ではありません。
中世などは(文化的な)暗黒時代と言われ、教会関係者の多くがラテン語で記された聖書も満足に読めず、(当時、まだ西洋では紙は使われていませんでしたが)紙芝居のような絵でラテン語で記されている聖書とも少し異なる教えを行う宗教活動をしていたと言われるほど、文化的に酷いレベルだったそうです。
西欧が他の世界に追いついたのは、もう少し後のことですが、1517年 という年は、偶然にも、西洋のキリスト教世界にも、東洋(中東)のイスラム教世界にも、ひとつの転換点となった年でした。
キリスト教の世界では、ドイツ人の神学者 マルティン=ルター がヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に 95ヶ条の論題(正式名称『贖宥状の意義と効果に関する見解』)を掲げ、聖書には記されていない 免罪符販売 をローマ教会が行っていることを訴え、アタナシウス派(カトリック教会)を公然と批判した 宗教改革 を行開始した年が 1517年 でした。
一方のイスラム教の世界では、セリム1世が率いるオスマン=トルコ軍がカイロを占領してマムルーク朝を滅ぼし、イスラム世界での君主の最高位である スルタン (キリスト教世界における皇帝のようなもの)の位を奪い、既に1258年に滅亡したアッバース朝のマムルーク朝に保護されていた預言者ムハンマドの後継者を意味するイスラム教スンニ派の宗教的な最高指導者である カリフ (アタナシウス派キリスト教世界におけるローマ教皇のようなもの)を廃位させた年が、同じく 1517年 でした。
西ヨーロッパでの宗教改革の動きは14世紀のイングランドでのウィクリフ、15世紀のボヘミアのフスなどを経た後にルターの宗教改革が起こり、実際には1536年に キリスト教綱要 を著したスイスで宗教改革運動を成功させたフランス人 カルヴァン の提唱した、現世での善業や悪業に関係なく死後に天国へ行ける者と地獄へ行く者とは、最初から神のご意志で決まっているとする 予定説 が広まり、キリスト教の安息日である日曜日に 商業活動(労働)をしても宗教的な規範に反することはないという説が西ヨーロッパ世界で支持されたことにより、その後の世界侵略、産業革命、世界の殆どを植民地化してしまうための出発点を踏み出すことになります。
逆に1517年にマムルーク朝を滅ぼしてカリフを退位させたオスマン=トルコ帝国は、16世紀初頭にはオスマン=トルコ帝国の皇帝が、スルタンとカリフを兼任する スルタン=カリフ制 を行い、中東のイスラム世界では、世俗面だけでなく宗教面においても、オスマン=トルコ皇帝の意向に逆らうことが難しくなり、オスマン=トルコ帝国では、その後に新しく発明された科学技術や制度が、それがイスラム教の教義に適しているか反するものなのかをイスラム教の高僧たちが審議し、適したものだと反対されたもの以外は違法なものとされる社会となっていきます。
例を挙げるならば、蒸気機関(鉄道)や電気、電信、株式会社や銀行などは、イスラム教のコーランに記されていないものであり、オスマントルコ帝国では、当初は違法なものだと判定され、違法なものだとされ、その後様々な新発明や新しい制度を次々と導入していったキリスト教世界と、新しいものの殆どを否定して受け容れなかったイスラム教世界の差が生じていくのです。
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BLOG記事タイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です
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安息日など宗教的な規範による人間の心の健全化と社会の硬直化について
私は朝晩、必ず仏壇を拝んでいますし、宗教が人に対して良い規範をもたらすことも多くあると思っています。
国語辞典や百科事典で 規範 の意味を改めて確認すると、行動や判断の基準となる模範、手本のことで、信仰を実現するための宗教的な規範の他に、善を実践するための倫理的・道徳的な規範、美を追求するための芸術的な規範、社会に秩序を実現するための社会的な規範などがあると記されています。
(このシリーズで)前回の掲載で言及した一神教の宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教にも、それぞれに様々な 宗教的な規範 が存在します。
BLOGタイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です
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様々な違いはありますが、同じ神様を信仰している3つの宗教には共通した規範もあり、その一つが 安息日 です。
天地創造の7日目に神様が休息したことによると言われ、ユダヤ教では土曜日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)、キリスト教では日曜日、イスラム教では金曜日と、曜日が異なりますが、いずれも7日に1日の 安息日 があります。
安息日には、一切の労働が禁止されていて、少し前までの週休1日、現在の週休2日制も、遡れば安息日に辿り着くとも言われますが、逆に言えば現在では、キリスト教徒にも多くの日曜日に労働する人がいるなど、安息日が徹底されている訳ではありません。
性悪説を肯定するつもりはありませんが、他人や社会への被害などお構いなしに人間が無制限に欲望追求をすれば歯止めが利かなくなる危険があり、倫理的・道徳的な規範と並んで宗教的な規範も重要な役割を果たしている部分は否定できません。
しかし、倫理や道徳は時代や社会の変化により 基準を 柔軟に少しずつ変化 させることが比較的容易なのに対し、宗教は 神の言葉 なので、柔軟にその解釈を変更することは難しい部分があり、宗教的な規範が徹底されている社会は、その社会が 硬直化してしまう 傾向に陥ってしまう場合があります。
バランス感覚だと言ってしまえば簡単ですが、人間を良い方向へ導くための 規範 の有効性と社会の 硬直化 のリスクの回避を上手に実現できる社会は、理想的だと言うことは、間違いないと私は思います。
※BLOG本文で記した内容は、各宗教を批判・冒涜するような意図で記したものでは全くありませんので、お読みになられた(それぞれの宗教を)信仰されている方が、不快に感じたならば、(そのような意図は私には全くありませんが)心よりお詫び申し上げます。
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一般の患者と全く同じに診察待ちをして糖尿病の治療をしていた超大物政治家
誰もが名前を知っているような大物政治家にとって病気の噂は決してプラスに働かないので隠したいものです。
各種パーティーなどで飲食の機会も多く 糖尿病を患っている ことを知られたくない筈です。
1991年に重度の糖尿病だと解り、糖尿病専門の病院に入院し、その後、現在も引き続き、私の母は26年間、その病院に2ヶ月毎に通院を続けています。
その母が、以前、実際に見た間違いない話を掲載します。
待合室で順番を待っていた母が聞いた患者さんを呼ぶ名前
「※山※※さん」
あまりにも有名な名前に反射的に、呼ばれた患者さんの顔を見た母が驚いたのは、超大物政治家本人 だったそうです。
いくつもの大臣や官房長官、自民党幹事長も歴任し、総裁選挙にも出馬して、次点(2位)だったために総理大臣にこそなれなかった人ですが、既に今は他界されてしまっている方ですが、誰もが名前を知っている大物政治家です。
ここまでの大物政治家でなくとも、白い巨塔のイメージなどから、それなりの権力者や金持ちは、一般患者とは異なる何らかの特別の方法を用いて 順番待ちなどせずに秘密裏に受診 するイメージがあったため、このような大物政治家が、何の特権も用いずに、一般患者と全く同じ条件で、糖尿病の専門医を受診していることに、その人間性の素晴らしさに感服しました。
イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です
ご存知の方も多いかと思いますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神様は、同じ神様です。
これら3つは共に聖地エルサレムから出た 一神教 なので、ユダヤ教では アドナイ 、キリスト教では デウス 、イスラム教では アラー などと呼ばれますが、いずれも同じ神様である ヤハウェ のことを指しています。
ユダヤ教は紀元前13世紀、キリスト教は紀元1世紀、イスラム教は紀元7世紀と3つの宗教の成立した時代が大きく異なりますので、同じ神様とはいえ、ユダヤ教は以降に成立したキリスト教とイスラム教を、キリスト教はイスラム教を認めていませんから、(最も新しい)イスラム教から見た場合にのみ3つの宗教の神様は同じだということになります。
キリスト教(の聖書)は、旧約聖書と新約聖書の2つから成り、両者を合わせて聖書だとされますが、旧約聖書とはユダヤ教の聖書のことで、ユダヤ教徒にとっては旧約聖書のみが聖書です。
また、ユダヤ教の預言者であるエレミヤやエゼキエルなどはキリスト教の中でも 預言者 として扱いをされており、イスラム教でも同じく 預言者 としての扱いをされています。
(キリスト教の)イエスを例として説明すれば、3つの宗教の関係が解りやすいです。
キリスト教の立場からすれば、神を信じるユダヤ民族だけが最後に救われるという 選民思想 を持つユダヤ教から脱却し、民族に関係なく、神を信仰する者は全て救われるという教えのキリスト教を作ったのが、イエス であり、後にキリスト教の主流となったアタナシウス派の説である 三位一体説 により、イエスは神と同等の位置にある人間ではない神性を持った存在だとされています。
ユダヤ教から見れば、イエスは 救世主(メシア)を語った偽物 である、許しがたい存在でが、後に成立したイスラム教では、イエスは 預言者の一人 としての扱いを受けて評価されています。
ただし、イスラム教では、イエスは、キリスト教(のアタナシウス派)が言うような神ではなく、あくまでも人間です。
遥か昔より、数々の偉大な預言者を世の中に出現した中で、イスラム教では、最大にして最後の預言者が、ムハンマド(マホメット)であり、彼により語られた神の言葉が記されたものが コーラン です。
ちなみにユダヤ教にも、イスラム教にも、預言者は登場しますが、彼らはあくまでも人間であり、創始者であるイエスを 神と同等と位置づけているキリスト教(のアタナシウス派) が特異だとも言え、三位一体説を主張していますが、ユダヤ教やイスラム教より 一神教ではないのでは? との批判を受ける部分でもあります。
個人的には、古代より日本で育まれた 森羅万象 に神の発現を認める 八百万神(やおよろずのかみ)の方が、心が穏やかになり良いと感じるので、本当に正しいかどうかは別として、宗教学を突き詰めるという思想学としての学問的な見地からすると、一神教と偶像崇拝の禁止 に辿り着くそうで、その意味では、キリスト教よりも、後発で成立したイスラム教の方が、一神教と偶像崇拝の禁止を徹底している宗教だと思います。
※BLOG本文で記した内容は、各宗教を批判・冒涜するような意図で記したものでは全くありませんので、お読みになられた(それぞれの宗教を)信仰されている方が、不快に感じたならば、(そのような意図は私には全くありませんが)心よりお詫び申し上げます。
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BLOG記事タイトル カトリック=アタナシウス派
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カトリック=アタナシウス派
ローマ教皇(法王)がキリスト教世界の頂点に立っているような言い方をする日本のマスコミも存在しますが、ローマ教皇は俗に言うカトリック教会の頂点の存在であって、全てのキリスト教の代表者ではありません。
主に西欧からアメリカ大陸へ広がる西方教会には、カトリック以外にも俗に言う(各派の)プロテスタント があり、主に東欧には 東方教会(ギリシア正教会) があり、ローマ教皇の力の及ばないキリスト教の宗派が多くあります。
カトリックという言葉が、ギリシャ語の katholikos という 普遍的 という意味の言葉から由来するそうですが、大学時代に 哲学・倫理学 を専攻していた私には、思想学としての宗教学として、キリスト教徒でない私からすれば、普遍的という感じはしないので、自分の心の中では アタナシウス派 だと捉えています。
尚、私はキリスト教徒ではなく、キリスト教は賛美もしなければ、冒とくするつもりも全くなく、思ったことを記しているだけなので、信者の方などが、気分を害されることがあれば、どうか、お許しいただきたく存じます。
アタナシウス派は、日本の高校の歴史の教科書にも、4世紀(西暦325年)に開かれた(第一)ニカイア宗教会議 において、イエスの存在が人間かどうかの解釈において、人間面に重きを置いていたアリウス派の主張に対して、アタナシオスらが主張した、神、イエス=キリスト、精霊の3つが全て神性を持っているという 三位一体説 が勝利したことが記されています。
(ニカイア宗教会議)
少し余談になりますが、歴史の教科書には、その辺りの出来事を、三位一体説を主張した代表者だったアタナシオスの名前から、アタナシウス派 と記されていますが、キリスト教の世界で、アタナシウス派なる用語で呼ばれることは殆どないそうで、主張が勝利したニカイア宗教会議の地名に由来する ニカイア派 などの用語が一般的だそうです。
(しかし、日本の教科書にも載っているアタナシウス派という用語を用いて、これから先も書き進めます)
ローマ教皇の力の及ばない東方教会やプロテスタント各派も、アタナシウス派から派生したため、広い意味では、全てがアタナシウス派と呼んでも差し支えないのですが、大筋では、キリストの神性を認めながらも、三位一体に対する解釈 が微妙に異なるため、狭義の意味で、ローマ教皇の力の及ぶ、俗にカトリックと言われる宗派を私はアタナシウス派だと呼んでいます。
(ローマ教皇庁のあるバチカンのサンピエトロ大聖堂)
最後に大学時代に宗教学を学んだ経験より ‥‥
この事が、本当に正しいのかどうかは、未だに自分自身でも解りませんが、神 という存在を突き詰めていくと、2つの事に辿り着く ‥‥ と。
一つは、神は唯一の絶対的な存在なので、一神教 に向かっていく。
神は、全知全能な絶対的に高い存在なので、人間ごときが想像できないような凄い存在だから、偶像崇拝からの脱却 が起こる。
一神教と偶像崇拝の禁止 の2つが、思想学的な見地から、優れた突き詰められた宗教ということになるそうです。
アタナシウス派は、イエスに神性を与えることで、一神教から遠ざかり、三位一体説という苦しい解釈をし、更にイスラム教からの批判に応えて偶像崇拝を禁止した東方教会(ギリシア正教会)や、プロテスタント各派の多くが禁止している偶像崇拝を一度も否定したことのないローマカトリック教会は ‥‥‥ と、個人的に感じる部分もあります。
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ワイシャツの襟汚れを落とす方法
前にテレビで紹介されていて方法を実践しています。
汚れた襟に使う洗剤を選ぶだけです。
洗濯用の洗剤ではなく、食器用の洗剤です。
襟汚れはの主な原因は 油汚れ だそうで、食器用の洗剤は油汚れに最適なのだそうです。
数滴を襟に掛けて食器のように水とあわせてブラシで擦ります。
終わった後は、他の洗濯物と一緒に洗濯機に入れて洗います。
たった4ヶ月で国産の火縄銃を完成させ、黒船の二年後には蒸気船を作った日本人の凄さ
日本人が科学技術面で大きな衝撃を受けた出来事として1543年の種子島での鉄砲伝来と1853年の浦賀への黒船来航を挙げることが出来ます。
火縄銃に関しては最近では種子島よりも前に倭寇により日本に伝わっていたとする説が有力ですが、特筆すべきことは、火縄銃の実演を見た2梃(一節には3梃)を購入した種子島の島主・種子島時堯に複製を作るように命じられた刀鍛冶の八板金兵衛らが、たった4ヶ月という短い時間 で日本初の火縄銃を完成させたことです。
当時の人口(比率)は解りませんが、現在の種子島の人口や約3万3千人で、日本全国の人口(約1億2千8百万人)の たった 0.0026% にしかすぎません。
物凄い確率の中で、大天才の刀鍛冶の八板金兵衛が種子島に偶然にも住んでいたいたと考えるようりも、種子島にいた(全国で)平均的な能力を持った刀鍛冶が、短期間で火縄銃を複製できるほど、当時の日本人の技術がいかに凄かったかを物語るものだと私は思います。
その証拠に、戦後時代だったこともありますが、その後、日本の各地で、(国産の)火縄銃が次々と作られていったように、八板金兵衛だけにしか火縄銃を作れなかったのではありませんでした。
国産の火縄銃を作るにあたって、西洋人からの指導は全く受けずに完成させたのですが、複製するために分解するサンプルがありました。
しかし、黒船が来航して、日本人が初めて目にした蒸気船については、指導する西洋人の技術者もいなければ、複製するために分解などを行うサンプルも全くなく、オランダ経由で取り寄せた書物だけで、蒸気船の製作を行い、黒船来航と同じ1853年中に佐賀藩が模型の蒸気船を、2年後の1855年には、薩摩藩が国内初の蒸気船の 雲行丸 を、更にその2年後の1857年には宇和島藩が蒸気船を 独力で完成 させており、日本人の凄さを物語っています。
リオ五輪 陸上男子 100m×4 リレーの銀メダルに感動で心が震えました
多くの日本人の方が同じ気持ちかと思いますが、若い日本人選手たちのリレーの銀メダルに心が震えました。
アジア新記録で堂々の2位でしたから、本当に凄いです。
リアルタイムでテレビ観戦していましたが、その後、その録画を何回も見返しています。
振り返れば、レース前の登場の時から、この4人の若者は、本当に 素晴らしい表情 をしていました。
アジア記録を出した予選の 37秒68 では、決勝ではメダルに届かなくなると思って各人がシューズ 1/4 〜 1/2 分、予選の時よりも早くスタートを切ることで、タイムを更に縮めようと決めて挑んだそうで、8/100 秒 縮めた 37秒60 という素晴らしいタイムで銀メダルを獲得しました。
もしも、予選と同タイムの 37秒68 で決勝を走っていたならば、4番目にゴールして銀メダルだったカナダチームより後で、他チームの繰り上がりによりもらえた銅メダルにしかならず、決勝本番で、8/100 秒 縮めたことは、とてつもなく偉大なことです。
この 37秒60 というタイムは、1984年にカール・ルイスがアンカーをつとめたロサンゼルスオリンピックでのアメリカ合衆国チームの優勝タイムの 37秒83 を上回っているそうで、個人別の力では勝る外国人選手たちが、バトンの受け渡しで減速 して、再び加速してリレーしていく中で、日本人選手たちは 減速することなく 全員が最高の走り をして勝ち取った偉大なオリンピック第2位でした。
スポーツ という大きな括りで、多くの人が趣味(実践や観戦)に挙げることが多いですが、私はスポーツは4種類に分類できると思っています。
一つは球技です。
詳しく説明をするまでもないと思いますが、球を使ったスポーツで、バドミントンやアイスホッケーなども含まれます。
もう一つは数値を競うものです。
短距離〜長距離の陸上競技や競泳、スピードスケートなどの速さを競う競技や走り幅跳びや三段跳び、やり投げ、走り高跳びや棒高跳び、スキーのジャンプなどの距離を競う競技、持ち上げられるものの大きさを競う重量挙げなどの競技が、これらに含まれます。
もう一つは格闘技です。
こちら詳しく説明をするまでもありませんが、ボクシングや柔道、フェンシング、日本の国技の相撲も含まれます。
もう一つは美を競うものです。
シンクロナイズドスイミングやフィギュアスケート、新体操など、少し微妙ですが、体操競技も、こちらに含まれると思っています。
私事で申し訳ないのですが、実は私は球技全般に殆ど興味がありません。
子供の頃より、本当に何をしても球技は全て下手でしたし、テレビなどで観戦することも殆どありません。
しかし、逆に数値を競う競技の中でも、特に スピードを競う競技 は大好きです。
オリンピックでも、観るのは、水泳や陸上が中心です。
スポーツだというとご批判を受けるかもしれませんが、馬が大好きな私は、日本ではギャンブルが行われていることも理解せずに、子供の頃からテレビの競馬中継を楽しみに観ていました。
余談ですが、球技が下手で、超スポーツ音痴の私でしたが、短距離走だけは、小学校の4年生と5年生の時にはリレーの選手になれましたし、高校3年生の時の体育の授業での体力測定では、スパイクではない普通の運動シューズで100mを12秒9で走れたので、この分野でけは、ソコソコ人並みの力はあったようです。
日本人選手が出ていない100mの決勝でも、楽しみにテレビ観戦するような私なので、今回のオリンピックで、最も楽しみにしていたのが、100m×4 のリレーでした。
結果が出てから言っているようですが、私の予想では日本は銀メダルか銅メダル、上位に何かのトラブルがあれば金メダルまで有り得るかも? とさえ思って、ワクワクしていました。
勝ったジャマイカチームには何のトラブルもなく、逆に3位に入って失格となったアメリカ合衆国チームにも先着しているのですから、本当に凄いです。
ちなみに、アメリカ合衆国チームの失格の理由は、テイク・オーバー・ゾーン(バトンの受け渡しをするための20mのエリア)外でバトンの受け渡しが行われたことだそうです。
上にに3枚の写真を紹介させていただきましたが、下記のURLでは、これ以外にも、素敵な写真が多く載っていました。
http://mainichi.jp/graphs/20160820/hpj/00m/050/005000g/7
オリンピックに関する他のBLOG記事
ウルトラセブン第8話の衝撃的なラストのナレーションの内容
高校生の時に再放送を観て、子供番組の範疇を大きく超えるラストのナレーションに衝撃を受けたことが今も深く記憶に残っています。
メトロン星人が撃退されて、無事に解決された後のラストのナレーターの言葉。
人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。 でも、ご安心ください。 このお話は、遠い遠い未来の物語なのです。 ‥‥ え? ‥‥ なぜですって? 我々人類は ‥‥ 今。 宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してませんから。
1967年に作られた未来を想定した物語なので、約50年経った今からすればストーリーに無理な部分もありますが、次のような内容です。
正常な人間が突然、発狂して事件や事故が頻繁に起こるようになりました。
調べてみた結果、それらの事件や事故を起こした人間は、北川駅前の自動販売機で買った煙草を吸った後に発狂することが解りました。
ウルトラ警備隊の隊員の諸星ダン(ウルトラセブン)とアンヌは、北川駅前の自動販売機が見える喫茶店で犯人(宇宙人)がやってくるのを張り込みしていました。
そのシーンがこの画像ですが、ドラマ上の北川駅とは、小田急線の向ヶ丘遊園駅です。
私は高校2年生まで、2駅手前の和泉多摩川に住んでいたので、向ヶ丘遊園駅だと、すぐにわかりました。
ちなみに、数年前に、向ヶ丘遊園駅ほぼ似たような位置から撮った写真ですが、何となく、当時の面影が残っています。
宇宙人(メトロン星人)が人間を狂わせる煙草を補充しに来ました。
ウルトラ警備大の諸星ダンとアンヌに追跡されるメトロン星人の乗る車ですが、車の後に写っているコンクリート製の柱は、向ヶ丘遊園駅から向ヶ丘遊園正門駅まで走っていたモノレールの柱です。
残念ながら2000年にはモノレールの運行も終わってしまい、2002年に向ヶ丘遊園地自体も閉園してしまいました。
古びたアパートをアジトとしていたメトロン星人とウルトラセブン(諸星ダン)が、なぜか ちゃぶ台 を挟んで会話をします。
煙草に仕込んだ薬で人間を発狂させることで、人間同士の信頼関係を壊す ことで、人類が自滅させららることが解ったと語るメトロン星人。
その後、逃げるメトロン星人が乗っていた円盤をウルトラ警備隊の ウルトラホーク1号 が撃墜して、巨大化したメトロン星人をウルトラセブンが退治して、エンディングを迎えます。
ラストのこの夕暮れを背景に、衝撃的なナレーションが流れ、現在の人間は、お互いを信頼していない との警告が発せられて、番組は終わるのです。
約50年が経過した現在でも、心に突き刺さるような衝撃的な言葉 だと思います。
沖縄を駆け抜けた聖火ランナーたちに沿道で禁止されていた日の丸が振られて声援が送られた日
リオオリンピックの開幕が直前に迫り、4年後の2020年には東京オリンピックの開催が予定されています。
前回の1964年の東京オリンピックが行われた時、沖縄はアメリカ合衆国の占領下に置かれていました。
その当時の沖縄では、許可されていた祝日以外に日の丸を掲げたり、旗を振ることは、禁止されていて、その規則を破れば、米軍に罰せれるという酷い状況にありました。
オリンピックの開会式のクライマックスは、聖火リレーの最終ランナーが聖火台に点火する場面です。(写真は1964年の東京オリンピックの写真)
古代ギリシアのオリンポスの祭典をヒントに1896年より開始された近代オリンピックですが、最初から聖火リレーによる聖火が行われていたのではありません。
紀元前のギリシアで行われていたというオリンピアのヘーラーの神殿跡地で採火された日を聖火台に点火したことをオリンピックの慣例行事に取り入れたのは、何とヒトラーによるナチス支配下のドイツで行われた1936年のベルリン大会からです。
(ベルリンオリンピックのヒトラー)
(1936年のベルリンでの聖火リレー)
その後、聖火リレーは、聖火が通過する場所では、オリンピックが開幕する前から、大きな盛り上がり を見せる、一大行事に発展していますが、既に1964年の東京オリンピックの時にも、ギリシアから運ばれてきた聖火は、日本の全ての都道府県を通って、最終目的地の東京に到着するよう、計画されていました。
聖火リレーの最終地点が東京都だったのに対して、出発地点は ‥‥ というと、沖縄県 でした。
当時の沖縄は、アメリカ合衆国の軍事占領下に置かれていて、本土復帰を果たせていませんでしたが、聖火が全ての都道府県を通るということが決まった時、沖縄も日本の一つの県として、聖火リレーが行われる場所として、決まったのです。
下記のURLの日本オリンピック委員会のホームページに詳しく記されていますが ‥‥‥
http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/story/vol01_02.html
開会式の約2ヶ月前の8月21日にギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡で採火され、トルコ、レバノン、イラン、パキスタン、インド、ビルマ、タイ、マレーシア、フィリピン、香港、台湾を経て、9月7日に沖縄に到着しています。(その後、聖火は4つのリートに分かれ、九州と北海道から、それぞれ東京を目指してリレーされていきました)
9月8日から沖縄本島での聖火リレーが開始されましたが、ギリシアを出発してから沖縄までの到着の遅れや、今後の遅れを懸念して、オリンピック委員会からは、分火して先へ進めるよう指示がり、9月9日には聖火は鹿児島に空輸されましたが、沖縄に残った聖火は、その後も9月11日の那覇空港に至るまでの5日間、沖縄本島一周の総距離 247.1km、正走者・副走者・随走者合わせて3,473名の聖火リレーが行われました。
前述した通り、占領下の沖縄では、日の丸を掲げたり、日の丸を振ることが禁止されていましたが、そのような米軍の命令など、お構いなく、多くの沖縄在住の日本人が、沿道で日の丸を振って、聖火ランナーに声援を送りました。
下記のURLの沖縄県公文書館のホームページにて、当時の日の丸を振って応援する県民の写真を見ることが出来ます。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/exhibition/2015/03/post-456.html
聖火ランナーの後に、何旗もの日の丸が写っています。
とても皮肉な写真も残っていて、ランナーが走っている後方の丘陵は、米軍の施設なのでしょうか? 星条旗が写っています。
沿道で多くの日の丸が写真に写っています。
処罰など恐れず、祖国である日本への思いを抱いて、全身全霊で応援している沖縄県の方々の写真を見るだけで、涙が溢れでてきました。
これほど大勢の沖縄県民が、規則を破って、日の丸を振って、聖火ランナーに声援を送りましたが、さすがにアメリカ合衆国の占領軍も、これらを全て黙認し、誰も処罰される人間はいなかった そうです。
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10日ほどの間に5度もの難破に遭遇して生き残ったピーター・リチャードソンの奇跡の航海
イングランド出身の若くして親と生き別れてしまったピーター・リチャードソンは1829年10月16日にオーストラリアのシドニー港より西海岸のラッフルズワンへ向かう高速帆船マーメイド号の船員として、彼を含む22名を乗せて出航しました。
順調だった航海の4日目に、なんとマーメード号が座礁して沈没してしまい、乗っていた22名は海に投げ出されてしまいました。
海に投げ出された22人は、幸運にも近くに海上に突き出ていた岩を見つけて、必死に泳いでいき、その岩にしがみついて一命をとりとめました。
岩にしがみついて3日間も耐え抜いた22名は、近くと通った小帆船スイフトシュア号の船員に発見され、22名全員が無事に救出されました。
しかし、このスイフトシュア号も 2日後 に、強い海流に巻き込まれてしまい海岸線近くの浅瀬に乗り上げてしまい沈没してしまいました。
乗っていた32名は何とか近くの海岸まで泳ぎきり、全員が救助を待つことになりました。
今回は、とても早く 3時間後 に近くを通った快速帆船ガバナー・レディー号に救助されました。
しかし、救助された たった3時間後 に、多くの材木を積んでいたガバナー・レディー号から原因不明の火災が発生し、船が炎に包まれてしまいました。
船を捨てて全員が無事に3隻あった救命ボートに分乗して助かりましたが、総勢が64人にも増えていました。
救命ボートで漂流していた64人は、すぐにオーストラリア政府のカッター船コメット号に救助されました。
ここまで、続くとさすがに、このコメット号も再び難破してしまうのではないか ‥‥ 特にマーメード号からの乗員・乗客だった22人は内心、不安を覚えていました。
そして、この不安は現実のものになります。
コメット号は嵐に遭遇して転覆してしまったのです。
今回は急に船が転覆してしまったので、救命ボートに乗り移ることも出来ず、船の残骸の帆柱や木片にしがみついて救助を待ちました。
今度は 18時間後 に、近くを通りかかった郵便船ジュピター号に全員が助けられました。
救出され、やっと、ひと息ついた直後、ジュピター号が座礁してしまい、船底に大きな穴が開いてしまい、船が沈んでしまいました。
海中に放り出された全員は必死に近くの岩礁まで泳いで辿り着きましたが、既に総勢が128人に増えていました。
こうして助けを待っていると、今度はイングランドの客船シティ・オブ・リーズ号が通りかかり、全員が無事に救出されました。
今度の船は大きな客船でしたが、再び難破してしまうのでは ‥‥ という不安を皆が抱いていました。
そんな中で、再び事件が起こりました。
しかし、今度は沈没ではありませんでした。
この船の船医が、大きな声で、乗っている全員に呼びかけました。
「すみませんが、この中に、どなたかイングランドのヨークシャー出身の方はいませんか?」
船医が言うのは、この船に危篤状態になってしまった婦人がいて、うわ言のように、昔、生き別れてしまった息子に会いたがっているのだそうです。
既に誰が誰かの判断も出来ないほどの病状なので、婦人の死に際に、適当に昔のヨークシャー州の話をして、彼女の息子を演じて欲しいというのです。
最初に沈没したマーメード号の船員だったピーター・リチャードソンは、ヨークシャー州のホイットビーの出身だったので、息子役を演じることを名乗り出ましした。
年齢的に大丈夫だろうか? と心配して船医に質問すると、何と彼と同じ34歳の筈だとの回答でした。
これならば大丈夫だと安心して、船医に、何という名前の息子を演じればよいかを質問した時の答えが驚愕でした。
船医が指示した名前は ピーター・リチャードソン だったからです。
演じる必要など、なかったのです。
遠い昔に生き別れてしまったとはいえ、自分の母親の顔を忘れる訳がありません。
病床に寝ていたのは、ピーター・リチャードソンの 実の母親 だったからです。
このシティ・オブ・リーズ号は沈没することもなく航海を続けて港に到着して、全員を無事に送り届けることが出来ました。
そして、危篤だった婦人は、実の息子に再会できた感動で、奇跡的に命をとりとめて、その後、順調に回復して、息子のリチャードソンと、死ぬまでの20年間、一緒に暮らしたそうです。
10日ほどの短い期間に、乗っている船が5隻も沈没すること自体が異常ですが、繰り返し起きた沈没事故にも関わらず、誰ひとり死者も出ないで全員が無事だったことが正に奇跡 だと言えます。
生き別れてしまったリチャードソン母子が、再会したいとお互いが願っていた強い思いが、有り得ないような回数の船の沈没を引き起こし、奇跡の再会を果たしたのではないかと言われるほどです。
この話は、オーストラリアの連邦海運局と、ロンドンの保険会社ロイズ社に、記録として残っているそうです。
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絶対に国民が選挙権を手放しては駄目です! 全権委任法を成立させてしまった苦い歴史の教訓から学ぶべき
国民が選挙で選んだ為政者が実は酷い人間だったと解った場合でも、次回の選挙で、酷い人間たちを落選させることにより、過ちを正して酷い状況から抜け出ることが可能です。
よって選挙が正しく行われることが求められ、不正が行われないように目を光らせる必要があります。
酷い人間を選挙で選ばなければ何の問題もないのですが、日本に限らず、世界中を見渡しても、正直に自分の長所も短所も包み隠さずに曝け出して国民の真を問うような選挙姿勢の立候補者よりも、自分がいかに素晴らしいかという部分を上手にアピールできた人間がウケるため、当選後の実際を見て、(私が投票して)当選した人が、こんな酷い人だとは思わなかった という、失望感、裏切られた感が生じることは、辞任した舛添東京都知事のケースだけにとどまらず、歴史を紐解けば、数多くの事例があることを私たちは知っています。
しかし、選挙で選んだ為政者が失敗だったと気づいても、二度と選挙が行われず、選んだ為政者の やりたい放題 で、誰も止めることが出来ずに、国民が苦しむようなことが起こったならば、それこそ、大変な事態です。
世界で初めて社会権が盛り込まれた、出来た当時は最も進んだ憲法だと言われたドイツの ワイマール憲法 の下で、このうえない酷い事態が起こりました。
第一次世界大戦で負けたドイツで敗戦した年(1918年)に出来たのが、ワイマール憲法は、人間が人間らしく生きていく権利(生存権)や誰もが教育を受けられる権利(教育権)、労働者の労働環境などの基本的な様々なことが守られる権利(労働基本権)、各種社会保障など、基本的人権が守られることなど、社会権 が世界で初めて明記された憲法で、その後の各国の憲法の模範となった、当時、世界で最も進んだ憲法と言われていました。
このワイマール憲法下のドイツで1933年の総選挙が行われた結果、第一党となったのは、ヒトラー率いるナチス党(正式名は国家社会主義ドイツ労働者党ですが、以降、ナチス党と表記します)です。
議席数2位のドイツ社会民主党の120議席の倍以上の288議席を獲得したナチス党ではありましたが、しかし、(ナチスの得票率は43.9%で)議席獲得率は 45% にすぎず、過半数すら獲得してはいませんでした。
288議席で議席数1位のナチス党は、73議席で議席数4位の中央党と52議席で議席数5位のドイツ国家人民党と連立して組閣して、120議席で2位のドイツ社会民主党や81議席で3位のドイツ共産党を抑えて、ヒトラーが首相に就任しますが、この内閣でのナチス党の入閣者は、首相のヒトラーを含めても3人しかいません。
当時のドイツの内閣は合議制で、ドイツ国家人民党の党首で副首相となったフランツ・フォン・パーペンは、自分たちが内閣の実権を握るつもりで 「二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられて、泣いているだろう」 と内閣成立時に親しい関係者に語っていたそうです。
しかし、当時のドイツは連邦制をとっており、全国の警察を管轄する権限を獲得できなかったナチスは、強く要求した首都ベルリンを含むプロイセン州の管轄権を獲得していました。
ヒトラー政権が成立した29日後の1933年2月27日。首都ベルリンで 国会議事堂放火事件 が発生しました。
現場にいたとされるオランダ共産党員の男が現行犯逮捕されましたが、ベルリンの警察権を掌握していたナチスは、ドイツ共産党による組織的な犯行だと公言して、国会議員を含むドイツ共産党員を国家転覆の容疑で、一斉に逮捕・勾留しました。
ナチスにより自作自演による放火だったのではないかという説も未だに強く残っている国会議事堂放火事件については、下記のURLのBLOG記事の後半部分で、詳しく説明を載せております。
http://biryoku.hatenablog.com/entry/2016/07/03/082200
事件の翌月にナチス党が提出した、全ての国民が選挙権を持ち行われる普通選挙により選ばれた国会議員たちによる国会で成立した 史上最悪の法律と言われる全件委任法 が可決・成立しました。(1933年3月23日)
この法律を説明すると、本来は立法権を有する国会に代わって、国会の審議を経ないで法律を作る権利を行政権、つまり為政者に与えるという法律で、為政者の作る法律は、憲法に定められた事柄に優先されるというもので、事実上のワイマール憲法の終焉、無力化を意味するものでした。
憲法とは、本来、立法府である国会で審議・成立する法律よりも上位に位置づけられるもので、例え話としての極論として、女性よりも男性の方が人数が多い日本の国会で、男性議員が結託して、女性奴隷化法なる悪法を多数決で仮に可決してしまったとしても、その法律は、日本国憲法で定められている男女平等に反する内容のものであるから、違憲に該当するので、法律として成立しないというような仕組みとなっていて、憲法は法律より上位に位置されています。
第一の問題点は、当時の最高水準と言われていたワイマール憲法には、憲法が法律より上位に位置しており、成立した悪法で憲法が簡単に形骸化してしうことを防止するシステムが盛り込まれていなかったという欠点があったことです。
第二の問題点は、議席獲得率が50%未満だったナチス党が反対政党の国会議員に対する不法逮捕と、それ以外の党へのナチス武装集団の突撃隊を使った脅迫や嘘を並べた懐柔工作により、法律成立に必要な国会議員の 2/3 の票 を確保したことです。
詳細は上の表の通りで、全件委任法に反対することが確実だった81人のドイツ共産党議員は、不法逮捕や亡命による国外避難により全員が国会に出席できず、同じく法案に反対だったドイツ社会民主党の国会議員のうちの26人はナチスの妨害などにより国会に出席できず、94人が反対票を投じたものの、ナチス党以外の党も、全て賛成票を投じたため、天下の悪法と言われた 全件委任法 が成立してしまったのです。
このBLOGの冒頭で、酷い為政者は、次回の選挙で落選させれば ‥‥ と書いていますが、この法律が成立した1933年3月以降、ナチス政権下のドイツでは、(為政者を落選させることを可能とする)選挙が行われることはなかったのです。
どういうことかといえば、同年(1933年)7月にはナチス党以外の政党の存続と新党結成が法律により禁止され、11月に国会議員選挙が行われましたが、立候補できる候補者は全てナチス党員なので、選挙により為政者であるヒトラーを落選させることなど出来ません。
その後、1936年と1938年にも、ドイツでは総選挙が行われていますが、立候補者は全てナチス党員なので、ナチスへの反対意見は、決して選挙では反映されることはありませんでした。
翌1934年にヒンデンブルク大統領が死亡して、その職もヒトラーが引き継ぎ、首相と大統領を兼任した総統(F?hrer)となり、その後は、政治犯の強制収容所への収監、ユダヤ人の公職追放やドイツ人との結婚の禁止(ニュールンベルグ法)や財産の没収、身体障害者への強制去勢・不妊手術の実施などの迫害、国際連盟からの脱退、再軍備化やラインラントへの進駐、第二次世界大戦への参戦やユダヤ人やスラブ人への虐殺など、挙げればキリがない数々の悪業を、国民の意向に関係なく行っていきました。
ナチスによる独裁政治は、第二次世界大戦で1945年にドイツが敗戦するまで、終わることなく続いたのですが、この悪名高い全件委任法は、あくまでも 国家の危機を乗り越えるための緊急対策法として、提出され、可決された法律であり、この法律の正式名称は 民族および国家の危難を除去するための法律 です。
法律の有効期限も、4年間の時限法案 で、ナチスは、期限延長などで、1945年まで、12年間、この法律に基づく独裁体制を続けていました。
国民主権の体制を守りぬくための過去の失敗から学ぶ歴史的教訓として、緊急時の超法規的な時限立法 という名目で、延長手続きを繰り返し実施可能で、結果として、選挙により為政者を引きずり下ろすことの出来ないような仕組みが成立してしまうようなことには、絶対に Yes を出さないことが、最も重要だと思います。
敢えてデリケートな話を述べます。
日本における憲法9条の 戦争放棄 に関する部分について、私個人は、強いて言うならば、現在の周辺諸国の状況を鑑みるならば、この部分については、無くした方が良いと思っていますが、こればかりは相手(国)のあることなので、平和を維持するために、憲法の戦争放棄の条項をを無くした方が良いのか、現状維持を続けていた方が良いのか、どちらが得策なのか、正直、絶対的な自信がある訳ではありません。
また、良いことなのか、悪いことなのかも、難しい部分ですが、某国の尖閣諸島への進出が、これ以上、激しくなるようならば、憲法9条の改正を外交カードとして、チラつかせて、某国の無法者行為を牽制することに使えるかもしれないとも思います。
いずれにせよ、現在の日本において、憲法第9条を改めるべきだとの思いを抱いている人の多くも、逆に現状維持すべきだとの思いを抱いている人の多くも、最終的な願いは、平和の維持 という共通の思いであり、その実現のための方法論が、180度違っているにすぎないと私は思います。
無責任な言い方かもしれませんが、いずれが、平和維持のために、ベターな選択なのかは、やってみないと解らない部分があり、相手(国)がいるので、完全な予測など、誰も出来ない面があると思っています。
だからこそ、国際情勢の変化や予想と違った結果が出てきてしまう事態も十分に考えられ、そうした状況変化に応じて、その都度、民意がいつでも反映できる仕組みだけは、絶対に崩さない、緊急事態という名の下に、為政者が何でも出来るような仕組みだけは、決して許してはいけないと、思うのです。
このBLOGを掲載する翌日の2016年7月10日には、参議院選挙が行われます。
幸いにして、現在の日本では、誰もが選挙権を持ち、場合によっては、酷いことをする国や地方自治体の立法府である議員や国会議員から選出される国の行政を担う内閣、地方自治体の行政のトップである知事や市町村長を落選させることが出来ます。
国民主権を堅持して、民意が反映させる制度を未来永劫、続けていくために、国民が実践していかなくてはならないことは、次の2つだと私は思います。
1つは、国民全員が持つ選挙権を大切にして、各自が、真剣に自分の現在のこと、将来のことを見据えて、自らの思いを投票すること。
もう1つは、投票の集計システムに不正がないかをしっかりと監視すること。
膨大な投票用紙を1分間に何百枚というスピードで、専用の機械で集計が行われていると言われますが、人間の目では追いきれない、このシステムに誰かが不正を働く装置が組み込まれないよう、しっかりと監視できるシステムの構築などが、今後、益々、重要になってくることも事実です。
−−− 関連情報 −−−
関連BLOG記事タイトル 命懸けで投票された方の実話 (真剣に参政権を大事にしたい)
私のFacebookの友人でもある夢月物語さんの亡くなられたヨガの先生が、もう助からない生命であることを知りながらも病床より不在者投票を行った選挙権がいかに大切かを教えてくれるBLOG記事です。
タイトル 命の期限知る・・・でも投票の意思
http://blog.goo.ne.jp/corgi_yume/e/36dbfb50c79859d211461a5ae6e64369
言いがかり甚だしい方広寺鐘銘事件の鐘は今でもそのままの形で残されています
関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣家の領地を220万石から65万石に減らして一大名に落とし込み、江戸幕府を開いて将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、徳川家の支配体制を磐石なものとした徳川家康でしたが、その晩年に豊臣秀吉の遺児の豊臣秀頼を何としてでも葬りたいと なりふり構わず に言いがかりをつけたのが、有名な 方広寺鐘銘事件 です。
65万石に領国を減らしたとはいえ、豊臣秀吉が残した膨大な金銀が大坂城には残っていたので、その財力を減らさせるために徳川家が豊臣家に再建を勧めて完成した方広寺の巨大な鐘に刻まれた銘文の中に 国家安康 と 君臣豊楽 の文字を見つけ、これは 家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの だという、小学生でも唖然としてしまうような酷い言いがかりをつけました。
多くの文字の中から、よく、探したものだと、呆れてしまいます。
結局は大人気の大河ドラマ「真田丸」でも、いずれ扱われる 大阪の陣(冬の陣と夏の陣) で、最大で両軍合わせて30万人ほどの兵力が激突して、多くの生命が失われ、豊臣氏も滅亡しました。
戦争が起きる前に、豊臣方は、悪意が全くない ことを必死に説明しましたが、何が何でも戦争をしたかった徳川家康は、決して許さず戦(いくさ)となりました。
本当に、どんなに謝まられても許さないほど怒った 国家安康 と 君臣豊楽 の文字ならば、大阪冬の陣での和議成立後、遅くとも夏の陣が終了して豊臣家が滅亡した後に、直ちに方広寺の鐘は処分するなり、銘文の修正や削除がなされるべきなのに、まった何もなく、江戸時代を経て、21世紀の今日まで、鐘が現存しています。
せめて、鐘を何とかしなければ、後世に恥を残す ことになるとは思わなかったのでしょうか?
同じような話が20世紀のドイツでも起こりました。
1933年にヒトラー率いるナチス党が選挙で第1党を獲得しました。
しかし、獲得議席は全体の45%ほどしかなかったため、大臣のポストのうち、首相のヒトラーを含む3つの大臣しかナチス党は獲得できない連立内閣でしかありませんでした。
大臣ポストこそ、少なかったものの、ナチスは首都ベルリンの警察を管轄するトップであるプロイセン州内相のポストを得ていました。
そうした時に、ドイツの国会議事堂が火に包まれました。
現場にいたとされるオランダ共産党員のオランダ人ルッペが逮捕されましたが、ナチスはドイツ共産党員による組織的なテロ行為だと断定して、共産党議員たちを一斉に逮捕しました。
全体の約13%の81議席を有していた共産党議員は全員、逮捕・拘束された後、ワイマール憲法を無力化するための 全権委任法 が国会に提出されました。
81人の共産党議員は逮捕されていたため国会に出席できず、逮捕を免れたドイツ社会民主党の91人の議員が反対票を投じたものの、他の政党はナチスに脅迫されて賛成票を投じたために法律が成立してナチスの独裁体制が確立されてしまいました。
この国会議事堂放火事件は実はナチスによる自作自演の放火だったのではないかという説もあり、現在でも議論が分かれています。
いずれにせよ、国会など無視して、政府が自由に法律を作ることが出来るようになった全権委任法が成立した後、ナチス党以外の政党は全て解散させられ、新しい党を作ることも法律で禁止されました。
よって 有形無力 となった国会ではありますが、その後、1933年11月、1936年、1938年と、立候補者はナチス党員だけという選挙が行われましたが、(国会は代替会場にて実施され)1945年の第二次世界大戦敗戦によるナチス政権の終焉まで放火により燃えてしまった国会議事堂が修復されることはありませんでした。
数日前より、改正後の日本国憲法には、国民主権 ・ 基本的人権の尊重 ・ 平和主義 の3つなど不要だと主張している自民党議員たちの発言とされる動画がネット上に出回っています。
憲法第9条の平和主義に関しては、平和を追求する思いが強い人の間でも賛否が分かれるため、平和主義に関しては置いておいたとしても、国民主権と基本的人権の尊重など必要ないという主張は 日本を北朝鮮のような国にしたいのか! という反対意見は、多くの人が共感するところではないでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=ltgMy3c937E
これがネット上で出回っている動画です。
画像がとても汚いことと、これを観た殆どの人が10日の参議院選挙で自民党に投票しようとは思わないような酷い内容であり、本当の映像なのか? 偽造された動画ではないのだろうか? とさえ思う部分があります。
いずれにせよ、もしも、この動画の発言内容が本当だとしたならば、選挙で選ばれただけの国会議員が、どうして、国民に権利を与えたり、奪ったりする上位に位置する人間だと言わんばかりの 上から発言 が出来るのか、疑問を感じずにはいられません。
あまりにも酷いことをすれば、落選させられてしまうというのが民主主義国家の制度ですが、その盲点を突いて、全てを無力化して独裁体制を確立させてしまったのが、ナチスの全権委任法 でした。
このような酷いことが絶対に起こらない仕組みがあれば、何も恐ることはありませんが、逆に、このような酷いことが起こり得るような危険が少しでもあれば、まずは、その危険を排除する必要があります。
続編として、ナチスによる全権委任法が成立した件に関するBLOG記事を掲載しました。
タイトル 絶対に国民が選挙権を手放しては駄目です! 全権委任法を成立させてしまった苦い歴史の教訓から学ぶべき