今年も紫陽花の挿し木をしました
狭い我が家の土地ではありますが、嬉しいことに季節になると毎年、何箇所で、様々な色の紫陽花が 綺麗に咲いて くれます。
毎年、6月~7月には、庭で咲いた紫陽花を仏壇の父にもお供えしています。
一昨年、昨年と連続して、庭の紫陽花を植木鉢に 挿し木 して、更に紫陽花を増やす試みもしています。
傾向として、花が咲くまでには、2年が必要なようです。
植木鉢の中にある紫陽花のうち、一昨年のものは、今年、初めて、綺麗に花が咲きましたが、昨年のものは、まだまだでした。
楽しみ(花が咲く) を2年後まで気長に待つことも、素敵なことだと思います。
また、欲しい方には、お譲りすることで、喜んでいただけるケースもあります。
今年も、紫陽花の挿し木を行いました。
(お譲りすることも想定して)鉢は、ホームセンターに売っていた、軽くて(相手の方に心の負担となららいような)200円程度の安価なものを用意しました。(今年は3つ購入)
鉢に入れるのは、土(黒土)などではなく、赤玉(土)です。写真は小粒タイプの赤玉です。
園芸用ネットを植木鉢の形に切ります。
鉢の下の方には、赤玉(土)の大粒を入れます。
続いて、赤玉(土)の小粒を入れます。
花が咲かなかった紫陽花の先端から5節目辺りから切断します。
写真のように、途中の葉を切り取って、上部の葉だけを残します。
最下部の切り口は、V字型 に尖らせて、バケツなどに浸して、十分の水分を含ませませた後に、鉢に挿します。
このような感じで、挿しました。
十分な水分が必要です。晩秋の頃まで、毎日、十分な水を鉢に与えていく予定です。
手前3つが今年の鉢で、その向こうが昨年の鉢、更にその向こうに(少し大きな)鉢が、今年、花が咲いた一昨年の鉢です。
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命懸けで投票された方の実話 (真剣に参政権を大事にしたい)
昨年(2014年)12月に行われた衆議院選挙は、史上最低の投票率という残念な結果に終わりました。
私が実際に投票所で見た 命懸けで投票を行った人の話 は、自分のFacebookにもリアルタイムで掲載しました。
数多くはないFacebookの友人のうちの何人かは、その掲載に反応してコメントもしてくれましたが、私のFacebookを見ることの出来る筈の政治関係の人、報道関係の人などは残念ながら反応を示さないという悲しい現実があり、その時の掲載と、その後の話を一部、誤字訂正、要約、修正などを行い、Blogへ転載することにしました。
[2014年12月14日のFacebookへ掲載した話]
投票所でのショックな出来事。
今朝、投票所で小選挙区の投票を私が済ませた瞬間、その先にある政党と最高裁判官の投票エリアから、「ドスン」という鈍く大きな音が聞こえました。
振り向くと老人男性が床に頭から倒れていました。
係員の方が数人で駆け寄って、その老人に 「大丈夫ですか?」 と声を掛けますが、何の反応もありません。
投票所のスタッフの方は救急車を急ぎ手配したと話していましたが、その老人は全く反応していない様子でした。
3年前に他界した私の父が脳梗塞を患い16年もの闘病の末に死んだこともあり、何となく想像できましたが、恐らく、急に脳の異常を発症して、突然、倒れられたのだと思いました。
生命の危険も考えられますし、幸いにして生命を取りとめられても、その後の後遺症や闘病、それを支えるご家族の大変さなどを考えると、存じ上げない方ですが、その大変さに身が割かれる思い がしました。
一票の大切さ、政治に参加する意義など、今回の選挙でも、様々に発信されていますが、この倒れられたご老人、結果として、まさに生命を賭して、投票に行かて政治に参加された ことになります。
面倒だから、選挙は‥‥という方、是非、政治に参加して欲しいと思いました。
同時に、政治関係する方、報道に関係する方など、影響力のある方は、是非、シェアなどして、参政権の大切さを世の中に訴えて欲しい と思います。
[2015年1月のFacebookへ掲載した、その後の話]
年末に届いた自治会報に詳細が記されたので記します。
12月14日(日)の私の住む投票所の衆議院選挙の状況報告記事として次のようなことが記されてありました。
我が投票所の 投票率は35%しかなかった ということ。
そして9時10分頃。(←私が投票した時間も同じ)
比例区・最高判事審査記載直後に大柄の高齢男性が仰向け様に昏倒(急性くも膜下出血の発作)、脈もなく「心肺停止状態」 となってしまったこと。
直ぐに用務員さんの機転でAEDが持ち込まれ、「AEDの講習を受けたばかりの選挙事務所アルバイト中の大学生2名」 の大奮闘で息を吹き返し、その後、現場へ到着した救急車で病院へ運ばれたこと。
夕方、投票所に、ご家族の方が関係者(特に大学生の方)にお礼にみえて、「お陰様で、現在、病院の集中治療中ですが、命には別条ありません」と伝えてにきてくれたこと。
このような話が載っていました。
AEDの講習を受けた方がその場にいて、迅速に対応して下さったことで、このご老人の生命を救えたことを、私も後日、知ることが出来て、本当に良かったと思いました。
そして、改めて 命の重さ と、命懸けの投票をされた、このご老人の姿に、参政権の大切さ、安易な気持ちで参政権を放棄してしまうことの愚かさ を感じました。
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とても良い戒名ですね(七回忌でお坊さんに言っていただきました)
あいにくの天気でしたが、本日、2011年5月22日に16年に及ぶ闘病生活の末に他界した父の七回忌法要を行いました。
お坊さんが 「とても良い戒名ですね」 と言って下さりましたが、毎日、父の戒名を告げて、仏壇を拝んでいる私も、そう感じていたので、改めて、そう言っていただけると嬉しいものでした。
全ての意味が理解できた訳ではありませんが、お経の内容も、とても素晴らしい内容で、良い供養(七回忌)が出来たとの思いです。
尚、小学校から大学まで全て私立の学校に通わせてもらって育ててくれた父の発病の翌年に結婚して実家を出た後、一度も父の介護も見舞いも行わず、父の危篤を知らせても無視し、葬儀にも来ず、未だに父の墓の墓の場所も知らない兄は、遂に七回忌にすら来ませんでした。
‥‥というか、父の生存中の闘病中から、現在に至るまで、1円たりとも出さない 守銭奴 ぶりには、 呆れるばかりです。
今後、存命している母に何かあった時に、駆けつけることが出来るよう(それさえも無視するようでは人間として終わり)なので、そうならないよう、父の死後、兄には、様々なアプローチをして、兄の人間性の回復の機会に手を差し伸べたつもりでしたが、(悪いことをした自分への攻撃だとしか感じられない)兄には全て無駄だったようで、全てを拒否した結果が、実の父親の七回忌も無視し、未だに墓の場所さえ知らない、人としてあり得ない親不孝を続けているという現実です。
私が思う普通の常識(倫理観)ならば、そのような人間が小学校の教師として、教壇に立つこと自体が、あり得ないことだと思いますが、この事実を知っていながら、何もしない 芸能人の子供が多く通っていると言われる誰もが名前を知っている有名私立小学校 、 何の違和感も感じていないのかも知れない保護者の方たちにはとは、世の中への価値観が私とは、大きく異なっているのだと思うので、きっと、今日の七回忌のお坊さんの話を聴いたとしても、何も感じないだろと思いました。
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名言集より
同じ とく でも、得より徳を大切にしている人生を歩んでいることを大切な人に胸を張って言い切れますか?
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それまでに自分を磨いておけば良いのです。
遅かれ早かれ、いつか必ず、あの世へ行って父に会えるのだから。
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乱筆にてお許し下さい。
そう記されている手紙(葉書)の字が本当に下手で何が記しているか解読不能な場合がある。
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嘘をつくために人間が進化して言葉を習得したとしたならば、あまりにも哀しすぎる。
それは違うと思うことで、改めて 言葉の重み や 優しい一言の大切さ を実感できる。
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9割がた彼が悪いのだろう。
満員電車に響き渡る汚い言葉。
両者の揉め事の原因までは解らないが、怒鳴り続けている男の方が悪い周囲は感じている。
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人生において 共感 することは最も大切なこと。
あなたは、馳せ参じることが出来なかったとしても、この1ヶ月間、何人の友人に、何回、共感を示す声を掛けましたか?
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本当の宝物とは
持っている宝が何かさえ、他人に決して言えないもの
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真実と現実感覚のいずれが大事かは非常に難しい。
真実が全てではない一例として
地動説を実感して暮らしている人間など誰もないない。
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流行とは
字のごとく時が流れると隆盛も去ってしまうもの。
流行を追うよりも、いくつ確固たる大切なものを持っているかが人生にとっては大切。
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唾が通るだけでも辛い喉の痛み。
激痛に苛立つのではなく、必死に風邪が奥へ達しないように頑張ってくれている喉に感謝。
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⭕⭕すれば、これであなたは 楽に⭕⭕が出来る
こんな本や情報がもてはやされること自体が、残念ながら良い世の中ではない証です。
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オフィス業務のパソコン処理について
スピードアップが目的であってはならない。
ヒューマンエラーを避けるための確実性を求めて しっかりとしたプログラムを構築 して運用することが 真の目的 である筈。
結果として、付随して スピードアップ も図られただけで、スピードアップを第一目的とするようなことをしても、仕事の質が大きく向上することなどない。
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人の話とは
話の内容は、その人の 知性 を表し、相手に与える印象は、その人の 人間性 を表す。
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順次、日々の人生の中で、私が触れ合った名言を載せていきたいと思います。
このBLOGの他の連載中、連載完了の各シリーズは下に紹介したURLまたは画像をクリックすると、該当するシリーズのBLOG記事の一覧に行きます。
収納機能のあるお花台を作りました
我が家の小さなサンルームの手前の空間に置くための収納機能のあるお花台を作りました。
元々は既製品の収納庫の上に花を飾っていたのですが、これを別の場所にもっていき、寸法に見合った新しい木製の収納庫を作ることにしました。
また、この空間は、ドクダミなど、雑草が多く、それらをシャットアウトするために、地面をモルタル処理することも併せておこないました。
横幅 1600mm 奥行 400mm 高さ 800mm のを作り、地面もモルタル処理して、砂利とレンガを敷き詰めました。
まだ、あまり物は入っていませんが、べニアで作った戸を開けると収納スペースがあります。
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驚くことに生きるか死ぬかの戦国時代の武士たちは鉄砲に否定的だった
隣国から攻められて滅亡する危機と隣り合わせだった戦国時代にヨーロッパから伝わってきた最新兵器の鉄砲(火縄銃)に多くの武士たちが拒否反応を示していました。
どうして?
現代人の視点からは、それまでの戦(いくさ)を一変する威力を持つ兵器を受けいれようとしなかったことが不思議ですが、そこには 人間の本質のある一面 が典型的に表れていると言えます。
当時の鉄砲以外の主な武器には、刀、槍、弓などがありました。
それらの武器を使いこなすためには、日々の鍛錬(訓練)を重ねる必要がありました。
全くの素人に武器だけ渡しても、上手に使いこなすことは出来ないからです。
そうした状況では、戦国大名のそれぞれの家には、刀の達人、槍の達人、弓の達人など、それぞれの分野での達人達が存在していた筈です。
そかも、それらの達人達は、その優れた武術(武器の使用法)を親から子供へと伝えていくことで、※※家は、槍の達人の家 というように、戦国大名家の中で、その地位を確立していたと思われます。
戦(戦争)となれば、槍隊は名門の※※家、弓隊は名門の※※家に任せる ‥‥ といった陣容となります。
いざ、戦(いくさ)となれば、上記のような枠組みが作られ、その中で、有力家臣たちの位置づけ(ポジション)が決まっていた中で、全く新しい 鉄砲(火縄銃) という兵器が登場してきたのです。
同じ飛び道具の弓よりも殺傷力が大きく、弓のように立ち上がって放つ必要がなく、腰を落として撃つことが出来ます。
離れた距離から鉄砲で攻撃されれば、刀や槍を持った兵士たちは、相手(敵)に攻撃を加えようとする前に殺されてしまいます。
部隊の主力を 鉄砲隊 に変更することで、兵士の数が同じでも、軍事力を各段に増大させることが可能になります。
殿様(戦国大名)からみれば、このような画期的に素晴らしいことでも、殆どの家(戦国大名家)では、軍事改革は行われませんでした。
軍隊の主力が鉄砲隊となれば、自分たちの代々、引き継がれていた、槍や弓の名門というポジション(立ち位置)を失うことを恐れたのです。
出来るだけ遠くへ矢を飛ばす必要性がある弓は、威力を発揮させるための構えや狙う方向など、長い期間、相当な鍛錬を積んで、技術を身につけたと思われますが、新兵器の鉄砲を実践で使えるようになるのに、弓ほどに長い期間の鍛錬が必要ではなかったことは、想像に難くありません。
つまり、弓や刀、槍などの(伝統的な)武器を、大して使いこなせない下級兵士(足軽)たちに、鉄砲の使い方を教えて、鉄砲隊に編入させて戦(戦争)で戦わせれば、これまで、戦で、大きな成果を出していた、弓や槍、刀の達人たちの活躍の場が失われることを意味します。
鉄砲は ‥‥
・雨が降れば(火縄の火が消えてしまうので)使えない
・暴発(火薬が破裂)する危険がある
・威力はあっても一丁が高価で財政を圧迫する
など ‥‥ 、鉄砲のマイナスばかりを挙げて、反対するのです。
隣国が大規模な鉄砲隊を組織して攻めてくれば、自分の国は滅んでしまう危険性よりも、自分の所属する家(戦国大名家)の中での、自分のポジション(保身)を大切 にして、鉄砲に反対したのです。
トップである戦国大名は、現代で言うビジネスでのトップと同じで、マネージメントを重要視せざるを得なかったのでしょう。
主だった部下たちが反対しているのだから、我が軍の主力を一気に鉄砲隊に切り替えることは出来ない ‥‥ と考え、結果として、全軍比率からすれば、10%程度規模の少数の鉄砲隊を組織させた戦国大名が殆どだったようです。
近視眼的な自分の現在のポジションを優先して、自分が所属する組織の存亡に関わる将来の見通しが出来ない場合がある ‥‥ という 人間の弱点が表れた典型的な事例 だと言えます。
弓隊を率いていたトップの家臣ですが、その豊富な経験を活かして、鉄砲隊の隊長になれば、まだ誰も効果的な戦術を模索中だった鉄砲を効果的に用いて、大きな戦果を挙げることが出来た筈ですが、多くの武士たちは、そのような発想の転換を行って新境地へ踏み込みませんでした。
生きるか死ぬかの戦国時代の話をしましたが、この話、現代のビジネスの話と多くの部分で重なります。
ライバル企業と食うか食われるかの戦いが日々、繰り広げられています。
現代の転職やヘッドハンティングのように所属する企業を変える人がいるように、戦国時代の武士たちの中にも、仕える主君を必要に応じて変えていった者もいました。
しかし、全員ではありません。大多数は、運命共同体的に、自分の家(戦国大名家)や自分の企業(会社)の中で、必死に働いています。
しかし、自分の所属する企業が倒産に追い込まれてしまえば、昨日まで、その企業の中で、それなりのポジションにいたとしても、何の意味もありません。
だからこそ、近視眼的な保身の呪縛から解放された柔軟な発想力を磨いておく必要性があります。
多くの戦国大名たちが、部下(家臣)たちの反対もあり、大々的な鉄砲隊の編成を行わなかった中、唯一、軍隊の主流を鉄砲隊に変えた戦国大名がいませい。
あの有名な織田信長です。信長は、現在の愛知県の約 1/6 しか領土を持っていなかった弱小な戦国大名でした。
現在の愛知県は、昔の尾張国と三河国の2国からなりますが、尾張と三河の面積比は、約 1対2 で、領有していたのは、尾張(地図上の赤色)の半分しかなかった織田信長は、現在の愛知県の約 1/6 しか支配していなかった弱小戦国大名でした。
歴史が物語る事実として、名だたる有力な戦国大名たちは、次々と織田信長に滅ぼされていき、信長は天下統一目前にまで辿りつきました。
現在の日本の企業の中でも、多かれ少なかれ、汗を流して一生懸命に働いている社員が頑張っている人間だという高い評価を得る傾向があります。
日々、相当な鍛錬(訓練)を行い、敵の矢が降り注ぐ危険の中で、矢を放つ弓の使い手の方が、腰を屈めて鉄砲を撃つ足軽(下級部下)よりも、立派に映る(見える)のと似ています。
経験上、私の得意なExcel(エクセル)の複合関数や簡易マクロ(VBA)を使ったプログラミングによる効率化に対して、斜に構える人がいない訳ではありません。
全員ではありませんが、それぞれの年齢層や地位で、自他ともに、それなりの高い評価を得てる人ほど、Excelプログラミングによる効率化計画に距離を置きたがる傾向があるのは、戦国時代の鉄砲の話と共通する部分を感じます。
早く逝ってしまった弟と長生きしすぎた兄 石原慎太郎氏が無駄に使った860億円の税金は批判した小池都知事の47年分に当たる
多くの人に惜しまれて52歳という若さで逝ってしまった石原裕次郎さんの元都知事の石原慎太郎氏の豊洲移転問題の記者会見(2017年3月3日)は、自分自身の責任逃れと他人への責任転嫁 がいっぱい、多くに人が批判しているように酷いものでした。
1000歩譲って、必死に自身の保身を訴えていたことには目をつぶったとしても、石原慎太郎氏たちによる 負の遺産 を引き継いで、一生懸命に対応をしている現職の小池都知事を批判する態度には、多くの方と同じく私も とても呆れ ました。
過去には、石原慎太郎氏も作家として、政治家として、数々の素晴らしい功績を挙げた人です。
私の表現が拙くて、意図と異なる受け取られ方をしてしまっては拙いので、先に否定しておきますが、もっと早く死ぬべきだった ‥‥ というような失礼ことを言っているつもりは全くありません。
過去の素晴らしい功績を台無しにしてしまうような醜態を記者会見まで開いて行ったという事実を記しているだけです。
小池都知事の判断もあり、豊洲への移転が行われていないことで、1日あたり 500万円 と言われる費用が必要だと言われています。
専門家の意見も分かれているようで、現段階の土壌汚染で移転が可能なのかどうかの専門的な判断は私には解りませんが、いずれにしても、今すぐに移転できない危険性をもたらした張本人の一人が石原慎太郎氏であることは間違いありません。
責任が自分にもあるにもかかわらず、小池都知事を 500万円もの費用を無駄遣いする愚策 を続けていると、批判している姿は、呆れるばかりか、それを通り越して 痛々しさ すら感じました。
石原慎太郎氏が批判していた 1日に500万円 という額は、1年間(365日)続ければ、18億2千5百万円 という途方もない金額になります。
しかし、20日の百条委員会でも、その疑惑追及予想される、石原慎太郎氏が都知事時代に東京都の税金で負担することを認めたとされる 860億円 もの膨大な金額は、小池都知事を痛烈に批判した500万円を 47年にも渡り 毎日、支払い続けなければ、860億円には達しません。
それだけ、桁違いの税金の無駄使いをした疑惑を残したことを、自ら記者会見で語ったような愚かなことです。
【拡散希望】 「お待たせしました!」という一言で世の中を良い方向に変えていける筈です
車同士で譲ってもらった時にハザードランプを点滅させて挨拶する日本人の気配りの文化に外国の方たちは感心・感激するようです。
教習所では教えない正式なルールではないので、一部には、これに反対している人もいるようですが、ちょっとした気配りでお互いの心が温かくなる素敵な習慣が(年数には諸説あるようですが)たった数年の短い期間で一気に日本全国に拡がり、すっかり文化と呼べるまでに根付いたと言われます。
何気ない思い遣りの心を拡散させて 日本特有の素晴らしい文化 にまで押し上げる凄い能力が日本人にはあると思います。
ハザードランプを使った気遣いのように、やり始める人が増えることで、一つの文化が形成できる可能性を思い、ネット上でも拡散してくれる方がいるかもしれないという期待を込めて、微力ながらBLOG化して掲載させて頂きます。
取り上げた題材が綺麗なものでないのが、恐縮ですが、「お待たせしました!」 と声に出して言える文化を拡げたいです。
我慢の限界を感じて飛び込んだ駅などの公共トイレには 既に長い列が出来ていた ‥‥ という辛い経験をされたことのある方も多いかと思います。
かく言う、生まれてから一度も便秘をしたことのない緩い体質の私も、このような経験を何度もしています。
他の人も同じ辛さで並んでいるのでしょうだから、自分の順番が来るまで、じっと我慢するしかありませんが 1秒でも早く自分の順番が回ってくること を願わずにはいられません。
トイレの個室に入っている人の中には、酷い下痢により排便が断続的に繰り返され、なかなか落ち着かずに悪戦苦闘が長時間に及んでしまっている場合もあると思います。
しかし、最近、多くの人が指摘していますが、不必要に長い時間、公共のトイレに居座る人間が増えてきた のではないかと思うケースが、しばしば見受けられます。
排便ではなく、トイレに座ってスマホやゲームに興じているのでしょうか? 扉は閉まっていても、何となく中の気配は伝わってくるもので、酷い下痢で苦しんでいる人の気配とは明らかに異なります。
日本人の国民性は、とても温厚なのでしょうか?
「グズグズしないで早く出てこい!」 などといった罵声が、トイレの順番待ちしている人たちから飛んでくるケースは殆どありません。
辛くても、じっと我慢して順番を待っています。
一部の心無い人たちのトイレの長時間滞在が、これ以上、拡がらないために出来ることは何かないだろうか?
反発を招く逆効果とならない良い方法は ‥‥ と、少ない知恵を絞って思いついたことでした。
(自分に出来ることは、なるべく早く用を済ませてトイレから出ることなので)トイレを出た時に、「お待たせしました!」 と待っている人たちに聞こえるように声を発するようにしました。
「お待たせしました」 という一言が、皆が辛い状況下で公共のトイレを使わせてもらっている同じ立場なのだということを自覚するキッカケになれば ‥‥ と。
この一言を言うひとが、1人ずてでも増えていき、次第に畝り(うねり)となって拡がり、日本人の文化の一つになるように拡散 してもらえれば、とても素晴らしいことだと思います。
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綿密に計画された作戦を実行して勝利した桶狭間の戦い
私の子供時代には迂回して少数の兵で背後から急襲して今川義元の首をとって織田信長が勝利したとされた桶狭間の戦いも、最近では正面攻撃を行い勝利したとの説が有力になってきましたが、織田信長は(本人も驚くような偶然の)幸運で勝利できた戦いであったように依然として評されていることが多いです。
しかし、私は、そのようには思いません。
歴史学者でもなく、何かの(歴史的な)証拠をもっての主張ではありませんが、後に天下統一の目前まで行きついた織田信長ほどの男が、本人さえもが驚くような幸運が転がり込んで勝利できたに過ぎないとは私には思えません。
(大名ではなく)守護代に仕える3人の有力家臣の一人であった父親の死後、守護代であった織田本家や実の弟との争い(内戦)を経て、織田信長が尾張の国の約半分の支配を達成できたのは、彼が26歳の時、桶狭間の戦いの前年の1559年でした。
織田信長が尾張の国の西半分を支配下に置いた翌年の1560年、既に駿河・遠江・三河の三国に加え、尾張の東部も支配下に収めていた戦国大名の今川義元が2万人とも4万5千人とも言われる大兵力で尾張に攻め込んできました。
以前は今川義元が目指していたのは京で、その通り道に当たる織田信長のいる尾張をまずは蹂躙しようと攻めてきたと言われていましたが、最近の研究では、今川義元が京を目指していた痕跡は見つからず、大軍を擁して尾張を征服することが狙いだったという説が一般的になりました。
織田軍が動員可能だった兵力は最大でも5000人ほどだったと言われ、兵士の数の上では圧倒的に不利な状況にあったことは間違いありません。
相模の大大名の北条氏、甲斐の大大名の武田氏と同盟を結び、背後に心配がなくなった今川義元が狙ってくるのが織田信長が支配していた尾張だったことを織田信長は当然、解かっていた筈です。
大軍を擁して攻めてくるであろう今川義元に対して、織田信長は、いかに劣勢の兵力で戦い勝利するかを綿密に何通りものパターンを想定して、作戦をたてていたと思われます。
以前の有力だった、半ば破れかぶれで、少数の兵力で山道を進んでいった所、眼下に今川義元の軍を発見して急襲したことろ(偶然にも)今川義元の首をあげることに成功したのでもなければ、現在は有力となっている今川軍に正面攻撃を仕掛けたところ、偶然にも今川義元の本隊が近くにいて勝利できたのでもなく、言われているような 偶然に ‥‥ というような幸運的な要素 は、なかったと私は思います。
松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊と本隊が離れていたために、今川義元の本隊の兵力は6000名程度で、織田信長が率いて攻撃した3000名ほどの兵力と、兵力的な開きは、それほどなかったと言われていますが、ここが綿密に検討を重ねた上での、最大のポイント だったのだと思います。
予め、想定しておいた今川軍の本隊が前衛部隊との距離が離れて織田軍との兵力差が最も縮じまり、劣勢の度合が少なくなる 時間と場所が合致するポイント を狙って攻撃を仕掛けたと思われます。
それでも、数字上の強さは劣勢な織田信長が、絶対的な勝利の自信などはなかったとは思いますが、勝利できる可能性の最も高いであろうポイントに全てを賭けたのでしょう。
結果は、見事に今川義元の首を取り、総大将を失った今川軍は撤退を始め、更に奥地に攻め込んでいた大兵力を擁していた松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊が撤退してくる際にも、(ある意味で)素通りさせることで、自軍の損害を最小限に留める大勝利を収めることに成功しました。
引き揚げてくる松平元康(後の徳川家康)とは交戦しない(交戦すれば劣勢な織田軍は壊滅してしまう危険があった)ことも計算の範囲内だったのでしょう。
丁寧に綿密に様々なパターンを想定して、その対策を準備していたとしても、全てが計画通りに運んで成功することなどは、寧ろ稀で、その意味では、桶狭間の戦いでの勝利は、幸運だった と言えますが、広く言われているような、織田信長が、全くの無策に近い形で戦いを挑んで幸運にも処理したのではないだろうと私は思っています。
余談ですが、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主役の柴咲コウさんが演じる直虎の父親の杉本哲太さんが演じる井伊直盛も3月5日に放送される「桶狭間の戦い」で今川方として参戦して戦死しています。
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眼鏡ショップJINSさん(株式会社 ジェイアイエヌ)の神対応に感謝
金曜日の東京周辺での春一番は私も今まで生きていた中で最も凄かったです。
実は、突風のため 眼鏡が飛ばされてしまう という信じられないような災難に遭いました。
私の裸眼の視力は 0.01〜0.02 ほどなので、飛ばされた眼鏡が何処に行ってしまったのか全く見えません。
腰を屈めて探すこと3分ほど、5m近く離れた場所まで飛ばされていた私の眼鏡は、人に踏まれて右のレンズが外れ、フレームも破損した無残な姿になっていました‥‥(涙)
この眼鏡は、2年位前に都内のJINSさんで購入したものでしたが、翌日、新百合ヶ丘へ行く用事があったので、最寄のJINS新百合ヶ丘店で修理が可能かを相談しました。
見ていただいた結果、何と、修理が可能であり、購入後2年も経ち購入した店舗でないにもかかわらず、40分ほどで無償で修理してくれるとの回答をいただきいたのです。
修理不能だと半ば諦めていましたし、例え修理可能でも、当然、2年も前に購入したもので有償だと思っていました。(加えて、こうした場合の修理代は高く、きっと新品を購入した方が安いことが殆どだと思っていました)
しかし、修理していただけるだけでなく、無償で修理して下さるとのことに 感激&感謝 の気持ちで、いっぱいになりました。
何らかの形で、この感謝の気持ちに報いたいとの気持ちも起こり、これも何かの縁だと思った部分もあり、スペアの眼鏡を購入することにしました!
写真の手前が無償で修理してもらった眼鏡で、奥のケースに入っている眼鏡が新たに購入した眼鏡です。
良心的な価格で販売しているJINSさん、壊れたフレームの一部を新品部品に交換してくれたにもかかわらず無償で対応してくれた 神対応 に感謝でした!
下記URLがJINSさんのHPです。
https://www.jins.com/jp/
http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/6fb93531a650944a79df8f17953f0b2f
病気や怪我をしていた人に「大丈夫ですか?」と声を掛けてはいけない理由
私の周囲にはインフルエンザが大流行で会社を休む人が例年に比べて多いです。
病気や怪我で休んでいた人が出社してきた時に私は決して 「大丈夫ですか?」 と声を掛けません。
程度の差こそあれ、病み上がりの方が全く平気な訳はありませんから、大丈夫でなくても 「大丈夫です」 との答えを強いるような言い方をしては駄目だから、私は、そのような言葉を掛けることはしません。
私は 「大変でしたね」 と声を掛けます。
このように声を掛ければ、相手を案じている私の気持ちも伝わりますし、声を掛けられた相手は、思いのままに言葉を返すことが出来ます。
とはいえ、「大丈夫ですか?」 という言葉が、あまり適切ではないとしても、残念ながら、声ひとつ掛けらないような人も、最近、増えてきており、とても乾いた世の中になってきた気がして少し寂しいです。
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正義を貫いた男たちの銅像に彼の姿だけがありません
自分が勝ち取った栄光を犠牲にすることで、人種差別を世の中に訴えなければならなった時代の話です。
しかも、まだ、50年も経っていない1968年に起きた実話ですから、哀しい驚き が隠せません。
当時のアメリカ合衆国では、飲食店やバスなど、公共の場で白人と黒人の居場所が隔てられるというような差別が公然と行われる社会でした。
こうした差別に反対する運動が 公民権運動 と呼ばれ、全米で盛んに行われ、人種差別に抗議していました。
こうした中で、1968年4月に黒人の指導者のキング牧師が暗殺され、アメリカ合衆国内の人種差別に対する抗議運動は、より一層と激しさを増していきました。
同じ年(1968年)の10月に行われるメキシコオリンピックに対し、陸上競技で世界屈指の実力を備えたアメリカ合衆国の黒人選手たちは、苦慮していました。
国内の人種差別に抗議して、オリンピックへの参加をボイコットするかどうかを悩んでいたのです。
そのような状況下で、トミー・スミスとジョン・カーロスという2人の黒人選手は、ある思いを抱いてオリンピックへの陸上男子200m走に出場する決断をしたのです。
2人は、オリンピックで表彰台に乗ることが出来たならば、その表彰式の際に、世界に黒人差別を訴えるつもりでいたのでした。
結果は、見事。トミー・スミスは優勝し、ジョン・カーロスも3位に入り、2人揃って表彰台に上がれることになりました。
星条旗が掲げられ、アメリカ合衆国の国歌が流れる表彰台の上で、2人は、首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げました。
これはブラックパワー・サリュート(アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為)と呼ばれるものです。
しかし、近代オリンピックにおいて、選手の政治行為は厳重に禁止されており、このようなことをすれば、オリンピックから永久追放され、陸上選手としての選手生命を絶たれてしまうことを意味していましました。
そのことを十分に理解していた2人は、覚悟の上で、敢えてオリンピックに出場し、見事に表彰台に上がる権利を獲得したのでした。
この2人の表彰式での行為は、当時のオリンピック委員会の逆鱗に触れ、直ちに2人は選手村を追放され、閉会式に出ることすら許されず、強制帰国させられました。
選手生命を絶たれてしまった2人は、職場を解雇される、家族は様々な脅迫を受け、ジョン・カーロスの妻は自殺に追い込まれるといった、様々な苦難に見舞われることになります。
しかし、同時に、2人が世界に示した勇気に裏付けされた訴えに賛同する人たちに支えられ、差別に屈せずに闘った人間だということも世の中に知れ渡りました。
その後、時は流れ、既に。2人の名誉も完全に回復されていた2005年には、二人の 勇気と信念 を讃えて、カリフォルニア州にある2人の母校のサンノゼ州立大学には、2人の銅像が作られました。
この表彰台の銅像には、拳を掲げた2人の銅像はありますが、2位選手の銅像はありません。
1968年のメキシコオリンピックの陸上男子200m走で2位に入った選手は、オーストラリア人の ピーター・ノーマン でした。
黒人選手たちの上位独占だろうと予想されていた中で、オーストラリア代表のピーター・ノーマンは、予選でオリンピック新記録を出すなどの素晴らしい走りを見せ、決勝でも、トミー・スミスとジョン・カーロスの間を割った2位となり銀メダルを獲得しました。
決勝前日の練習の時に初めて会って会話した時から、(白人の)ピーター・ノーマンは、2人の黒人選手と打ち解けていたとはいえ、決意を持って表彰式へ臨もうとしていた2人に対して
「僕は何をしたら良い?」
と、話を持ち掛けたと言われています。
「これは、僕たち黒人の問題だから、(白人)の君は、何も関わらなくて良い。その気持ちだけで、十分だから、ありがとう。」
と、丁重に、ピーター・ノーマンの申し出を2人は断ったと言われています。
「ここで、見て、見ぬフリをして、やり過ごしたのならば、僕も何らアメリカ合衆国の白人たちと変わらない。これは、人間として、私が、どう向き合うのかという私の問題だ ‥‥ 」
と言って、彼は2人が胸につける 人権を求めるオリンピック・プロジェクト(略称:OPHR) を自分も胸につけて表彰式に臨みました。
これが、その時の写真です。
ピーター・ノーマンが、このバッチを胸につけて表彰台に上がったことが、その後、彼をの悲劇のどん底へ突き落すこととなるのでした。
オーストリア人のオリンピックの陸上競技での、数少ない偉業にも関わらず、当時の 白人至上主義 が大勢を占めていたオーストラリアでは、ピーター・ノーマンの行為は、社会への裏切りに等しい行為だと捉えられ、数々のバッシングに遭ながらも、4年後のミュンヘンオリンピックまでに、オリンピック派遣標準記録を13回も突破して、世界の中の一流の陸上選手であり続けることで、彼は逆境に立ち向かっていっていました。
しかし、ミュンヘンオリンピックの直前、オーストラリアのオリンピック委員会は陸上200mに選手を派遣しないことを決め、ピーター・ノーマンは、完全に陸上選手としての抹殺されたのです。
オーストラリア国内にも、ピーター・ノーマンの名を知る人も殆どいなくなってしまい、その意味では、黒人差別と闘った英雄として、世界に名前が知れ渡っていたトミー・スミスとジョン・カーロスとは異なり、母国のオーストラリア国内でも、その功績が抹殺され、記憶の外に放り出されてしまったピーター・ノーマンに降り注がれてしまった悲劇の方が、より大きかったとも言われています。
西暦2000年には、オーストラリアのシドニーでオリンピックが開催されましたが、その時にも、まだ、ピーター・ノーマンの名誉は全く回復されず、開会式など、オリンピックの会場に招かねることもなければ、名前が紹介されることすらありませんでした。
メキシコオリンピックの表彰台以降、ピーター・ノーマン自身も、離婚や生活苦、体調不良に苦しみながらも、自分は信念を貫き通すことが出来て、そのことを母さんも、アメリカ合衆国にいるトミーとジョンも解ってくれている と語り、オリンピックの表彰台に一緒に上がった2人との友情は生涯に渡って続いていました。
メキシコオリンピックの時の3人の写真です。
3人の友情は永遠に続きました。
先ほど、紹介した2005年のカリフォルニア州のサンノゼ州立大学の銅像の除幕式には、ピーター・ノーマンも招かれて、出席しています。
この銅像に、ピーター・ノーマンの像が無いのは、彼自身の願い からだったそうです。
ここを訪れた人が、彼が立った(銀メダリストの表彰台)の場所に立ち、それぞれの自分の思いを感じて欲しい と、ピーター・ノーマン願ったため、銅像にはピーター・ノーマンの姿はないのです。
ピーター・ノーマンの銀メダル獲得とその後の苦難を、ずっと見てきていた甥のマットは、大人になり映像作家となっていました。
彼は、ピーター・ノーマンの偉業を映画化するために、動き出していましたが、彼に出資するスポンサーは見つからず、自費で少しずつ映画の製作を進めていました。
そのような中での2006年、映画の完成を見ないまま、ピーター・ノーマンは、突然の心臓発作で、この世を去ってしまいました。
とても少ない参列者しかいない彼の葬儀に、アメリカ合衆国から、トミー・スミスとジョン・カーロスの2人が駆けつけて、彼の棺を運びました。
そして、その2年後、ようやく映画が完成し、最初は僅か15の映画館での公開でしたが、その後の評判が広がり、上映映画館は増え続け、最終的には、国外の6ヵ国でも上演され、その結果、オーストラリア国内でも、ピーター・ノーマンの名前を知る人が増えていったそうです。
更に、その4年後には、オーストラリア議会が、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択し、彼がオーストラリア国内で受けた不当な扱いと表彰台で行った行を評価しなかったことに対して謝罪し、現在、シドニーの小学校では、授業でピーター・ノーマンの偉業の記録の映画を児童たちに見せているそうです。
私自身、このような崇高な志を貫いた ピーター・ノーマン という人の偉業を知らず、2017年1月26日にフジテレビ系列のテレビ番組「アンビリバボー」で、彼の偉業が紹介されていたのを観て、初めて知り、急ぎ、資料などを集め、このBLOGを作成しました。
どのような苦境が待ち受けようとも、正義を貫くことの素晴らしさ、そして、死後となってしまいましたが、正義に基づいた信念は、必ず、世の中に認められる時が来るのだということを教えてもらいました。
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その後の運命を決定的にしてしまう行動の巧拙
一瞬の判断の是非により運命が大きく変わってしまう場合があります。
関ヶ原の戦い(1600年)の徳川家康と石田三成の対応の違いが勝敗を分けたとも言われています。
東軍に寝返った 小早川秀秋の戦場での動き が、勝敗を決定的にしたと言われます。
寝返られた西軍側も、戦闘開始前から小早川秀秋の裏切りの兆候を掴んでいたため、石田三成が小早川秀秋に関白の座を約束するなど、寝返られないよう積極的な働きかけをしていました。
一方の東軍の徳川家康の側でも、本当に小早川秀秋が寝返って味方につくのか怪しく感じていました。
戦闘開始前から小早川秀秋の行動は怪しく、石田三成たち西軍の首脳陣の合議で決められた布陣を無視して、勝手に関ヶ原の戦場が見渡せる要衝の松尾山に布陣してしまうました。
そして、戦端が開かれると小早川秀秋は全く兵を動かさず(西軍側としても東軍側としても参戦せず)、戦闘の成り行きを見渡しながら、いずれかの勝利が見えてきた段階で、優勢な方について参戦する 様子見 の構えをしました。
戦闘開始後、東軍と西軍の一進一退の拮抗した状態が続き、いずれの陣営も、大兵力を有する小早川軍が味方として参戦してくれれば ‥‥ との思いが高まっていきました。
この状況に対して、石田三成は、一刻も早く西軍として出陣するよう、何回も使者を送って、参戦を促すという ごく当たり前の方法 で小早川秀秋の参戦を促しました。
しかし、勿論、様子見をして、勝つ方に加担することを決め込んでいる小早川秀秋は、石田三成からの使者が何度来ようが、決して参戦することはありませんでした。
そして、早く寝返って参戦するよう促す東軍の使者に対しても、同様の無視を続けていた小早川秀秋に対し、徳川家康は、諸刃の剣でもある賭け に出ました。
小早川秀秋のいる松尾山に向けて鉄砲を撃ち放したのです。
勿論、小早川秀秋軍にダメージを与えるための発砲ではなく、威嚇のための発砲ですが、この威嚇には、小早川秀秋が激怒して徳川家康の敵側である西軍として参戦してしまうリスク がありましたが、徳川家康は敢えて、そのリスクを承知で、威嚇射撃を行ったのです。
結果は、日和見している自分に対して、徳川家康が怒っており、このままでは東軍が勝利した時に、日和見していたことで、徳川家康に、どんな責めを言われるか と小早川秀秋は恐怖に襲われ、直ちに東軍に寝返り参戦をしました。(その結果、関ヶ原の戦いは徳川家康が率いる東軍の大勝利で終わりました。)
個人的には、石田三成は嫌いではないですが、豊臣秀吉の死から、この関ヶ原の戦いを経て、大阪の陣に至る経緯のズルさ故に私は徳川家康は嫌いです。
しかし、そのことは別として、関ヶ原の戦いでの小早川秀秋への働きかけの巧拙が、両者の勝敗を分けたと思っています。
ただし、石田三成の名誉のために、加えておきますが、小早川秀秋へ行った石田三成の働きかけは決して、酷いものではなく、ごく当たり前の常識的なものであり、常識にとらわれない、大きなリスクを伴う一枚も二枚も上手な決断を徳川家康が行い、実行して成功させた、その差が出ただけで、決して石田三成が何か大きなミスをしたのではありません。
その場に、特に敵もなく、自分の判断で、勝敗を大きく左右できたポイントで、何も出来なかっただけでなく、大失態をして、しかも、その大失態に、気づいてもなさそうな事例が、ごく最近の現代でもありました。
昨年(2016年)夏の都知事選挙(7月31日が投票日)の終盤の7月26日の出来事です。
自民党推薦の増田候補を応援するために、元東京都知事の石原慎太郎氏が応援演説を行い、鳥越候補のことを売国奴だと罵り、続いて小池候補のことを 大年増の厚化粧の女 だという暴言で罵倒した、その瞬間、同じ檀上にいて応援を受けていた増田候補は、写真に写っている通り、大笑いをしてウケていた様子 が記録として残りました。
老害の暴言・失言の常習犯の石原慎太郎氏よりも、その暴言を何の抵抗もなく受け容れた増田氏の人間性が明らかになったことで、彼は5日後、都知事選挙に敗れました。
都民が求めていたは、間違ったことには No をハッキリと言い、正しいものには、どのような妨害があったとしても Yes を貫き通すリーダーです。
自分の応援に駆けつけてきてくれた大物の石原慎太郎氏の発言であっても、間違いなく失言を発した石原慎太郎氏に対して、机を叩いて怒って彼の失言を指摘して撤回させるよう行動すべきだった増田氏は、石原慎太郎氏に対して行動を起こすべきかどうかを躊躇している様子さえなく、写真が示しているようにヘラヘラと笑っていました。
相手が石原慎太郎氏という大物でも、臆せずに毅然とした立派な態度をとっていたならば、恐らく民意の信頼を得て、彼は当選しただろうと思われますが、ヘラヘラと笑っていただけの、あの瞬間に彼の持つ 人間性の乏しさ が露見し、都知事選の敗北が決定的になった瞬間でした。
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失礼極まりない「生前退位」という言葉を使うことを中止して欲しい
私のような単なる一国民が発言するのも失礼ではないかとの躊躇いの気持ちもあり、これまで黙っていましたが、年の瀬の陛下のお誕生日になっても以前として改まる雰囲気も見られないので、意見を述べさせていただきます。
2016年8月8日に天皇陛下が国民に向けて お言葉を発せられ ました。
陛下の(憲法上その他の)お立場もあり、ハッキリした言葉を使われずに、ご高齢となった陛下の公務について、ご意志を示されました。
ハッキリした言葉を使えないお立場の陛下の心を汲み取る必要があるにも関わらず、マスコミも政治家たちも、こぞって 生前退位 という言葉を使っていることに、私は戸惑いを隠せません。
陛下は、譲位 のご意志を示されただけで、生きているうちに 退位 すると仰っている訳ではありません。
どうして 生前譲位 という言葉を使わないのか、私には不思議でなりません。
陛下は 生前退位 などという意味のことは、仰られてなく、私は、失礼極まりないと感じます。
家政夫のミタゾノで紹介されていた家事テクニックが凄い! 猫の毛が簡単に掃除できました
10月の新番組ドラマ「家政夫ミタゾノ」(金曜23:15から)で紹介されていた家事テクニックを試してみましたが、その効果が抜群だったので紹介させていただきます。
繊維に絡まった毛やホコリがゴム手袋で簡単に取れるのです。
ゴム手袋で擦ることで静電気が生じてカーペットや座布団に絡まっている毛やホコリが簡単にとれるという理屈だそうです。
我が家には猫がいるので、頻繁に掃除機や布テープで絨毯や座布団に絡まっている猫の毛を掃除しなくてはなりませんでしたが、なかなか大変で、正直、十分な成果があがっているとは言い難い部分もありました。
早速、昨日ほの番組の中の ミタゾノマル 秘 テクニック のコーナーで紹介されていた方法を試すため、100円ショップでゴム手袋を買ってきて、猫が好んで座る座布団を擦ってみました。
左から右へ1回、ゴム手袋で擦った写真がこれです!
こんなに簡単に猫の毛が取れました!
10月21日から始まったドラマ 家政夫のミタゾノ という番組を、正直、昨夜、私は偶然に観ました。
たまたま疲れてテレビをつけたまま、二時間以上もリビングで転寝(うたたね)してしまっていて、目覚めた時に放送されていたのが、この番組でした。
TOKIOの松岡昌宏さんが家政夫役で主演しているドラマで、お笑いの要素がふんだんの面白いドラマでした。
しかも、ドラマの中に出てくる家事テクニックが紹介され、今回のBLOGで載せた ゴム手袋を使ったテクニック も番組(第2回放送分)で3つ紹介されていた家事テクニックの一つでした。
番組(ドラマ)の公式HPは下記のURLです。
http://www.tv-asahi.co.jp/mitazono/
同じく公式HP内のfont color="pink"> ミタゾノマル 秘 テクニック は下記のURLで紹介されています。
http://www.tv-asahi.co.jp/mitazono/osarai/0002/